自分は生きているのか実感できない日々

生きづらさ体験談
文:もくもく
第6回
自分は生きているのか実感できない日々
┃五体満足でも考える『生』と『死』
私は入院しなければならないような、特別な病気をした覚えはありません。
一般的に言えば、健康的で五体満足と言えるでしょう。
しかし、私はいつも《自分は生きているのだろうか》と、考え続ける日々を送っています。
ふとした瞬間、これはいつからなのだろうと考えたとき、ずっと昔からだったのかもと思ったのです。
┃過去との格闘
過去をたどれば、自分に父親がいないことに疑問を持ちながらも、家族に聞くこともできず、もやもやとした日々を送りました。
進路や就職では、『自分は何がしたいのだろう』と問いかけても、何も浮かばない自分に嫌気しかありませんでした。
淡い期待と《夢》を持つことだけを頼りに、仕事を選び、自分をごまかし、偽って生きてきました。
しかしそれもまた、《自分は生きているのか》という問題を、深刻化させただけにすぎませんでした。
┃自身の手をみつめて
《自分は生きているのだろうか》という問題は、自らの思いと違う『起業』のせいだと思っていました。
人と関わることが好きではないのに、接客業(飲食業)を始めたからだと思っていたのです。
うまくいけば、自分は経営をして人に任せればいいと思いましたが、それも簡単にかなうことではありませんでした。
結果として、一般的に『自分の城』ともいうべき《店》は、心の負担となる《負の遺産》でしかなくなってしまいました。
『お金の問題がすべてなのか』と、いつも自分に問いかける日々。
何もかもが嫌になるとき、
私は自分の手を見つめ、その手を動かし
今、私は生きている。
明日も生きているのだろうか。
私は生きる。
私は死ぬ。
私は生きる。
私は死ぬ。
ぐるぐると回り続ける感覚。
自分は何がしたかったのだろう。何かを成し遂げたかったのだろうか?
そんなものは、最初からなかったのだろうか。
それでもこうやって生きている自分を、許していいのだろうか。
今となっては何も決められない、どうしていいかもわからない自分を許していいのだろうか。
心から湧き上がる声は、すべて自分を認められない自責の声しかありません。
ああそれでも私は、また手をみつめ
私は生きるのか
私は死ぬのか
と問い続けるのです。
そこまでして、生きるということは耐えるということなのかと、生きることの難しさを考えるのです。
┃根本は解決されない
このままではダメだよなと、気分転換にどこかに出かけてみました。
人間とは不思議なものですよね、一時的な気分の高揚や、景色にいやされるといった気持ちを感じました。
しかしそれは、あくまでも一時的なものでしかありません。
出かけ先から戻ってきたら、そこは現実の世界と向き合わなければなりません。
またもや、考えてばかりのループにおちいり、失敗を恐れるが故に何も行動に移せないループに、どんどんはまっていくのです。
そして立ち止まっている自分に、つらさと情けなさしか感じなくなってくるのです。
┃それでも「生きる」を続ける先に
人は苦を拒んで、快楽を求めるものだと思います。
苦から目をそらしたいのだ、背けたいのだとばかりに...
しかしそこにあるのは、何も変わらない現実だけです。
心と向き合い、行動して「体」も「心」も「環境」も整えていくしかない、三理一体で改善していくしかないのだと思っています。
その先には必ずや、「好き」とまで言えなくても、生きている実感が持てる自分になっていたいと考えています
文:もくもく
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<目次>
1.『父親は死んだ』とうそをつかれた20年間
2.親に相談できなかった進路
3.私の就職先を偽る家族
4.家族に「負け」を認めたくなかった
5.他人の言動に一喜一憂してしまう
6.自分は生きているのか実感できない日々
7.父親のいない私の離婚と子どもへの罪の意識
8.相談相手は誰でもいいというわけではない
9.自分は本当に不幸なのか
10.自分の軸を持とうと思うとき
11.行動できない自分を認めるということ
12.自己肯定と自己否定に疲れ切ったあなたへ
13.いつも不安と戦うしかないのか
14.欲求を満たしますか、義務感を優先しますか
15.あなたの夢は、本当に必要な夢ですか?
16.生きるとは苦しいことと認める
17.「自信がない」をもたらす真犯人
18.年が変わったからと、目標を立てていませんか?
19.その批判はなんのためですか。
20.ダメな人間は本当にいるの?
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