自分は本当に不幸なのか

生きづらさ体験談
文:もくもく
第9回
自分は本当に不幸なのか
┃うまくいかないことばかりに、目がいくとき
あなたは、自分を『不幸』だと思っていますか?
私自身、昔は『不幸だ』と感じることが多かったです。
以前のコラムに書きましたが、「父親が死んだ」とうそをつかれていたり、そんな自分自身も離婚をしたりと、
「自分には、『普通の生活』をおくることは難しいのかもしれない」
と、心の中でずっと『不幸』を感じていました。
自分がどこかに出かけるときに、
「また、今日も雨が降るのか」
と不幸を感じたり、
スマホを落としただけでも、
「自分は運がなくて、うまくいかないな」
と感じたりする。
ささいなことでも、自分が『不幸』を背負っているかのように考えてしまうのです。
しかし、頭の中ではそんなことはあるわけがないと、わかっているはずの自分もいるのです。
では、どうしたらいいのだろう、どうすれば少なくとも『自分は不幸だ』と感じずに済むのだろうと考えていました。
┃自己啓発系の本を読んだら、受け入れられるのでしょうか
いま、こうやって生きていることが、『幸せ』なのだと、自己啓発系の本などにはよく書いてありますよね。
「幸せは、自分の目の前にある。」
「幸せでない人なんていない。」
そんなことも書かれていたりします。
ましてや、ネットや個人のブログなどにも
「いまが、幸せであることに気づきましょう」
「ありのままの自分を受け入れたら、幸せでした」
といった内容のものが、よく書かれています。
ただ、そんな本を読んだり、見たりしたからといって、
「そんなことが、簡単に思えたら苦労はしていないよ!」
といった感想になってしまいます。
いま、まさに目の前の自分自身が、それを受け入れられる状態にないのに、
「そんなことを言われたところで、他人のことであって、自分は不幸だ」
と結論づけてしまいます。
しかし、そう思ってしまうのも結局は、受け入れる人の《心》なのではないでしょうか。
どんなにいいことが書かれていても、
どんなにいいことを言われても、自分自身に
《心の受け皿》
がなければ、すべてはひとごとで終わってしまう気がします。
だから、何をやってもうまくいかないからと漁るように
自己啓発系の本を読んだところで、
人の書いた記事を見たところで、
「そうか私も《幸せ》だったのか」
ということは、簡単に納得することはないと思うのです。
┃自分なりの視点を持ってみる
そこで私は、一歩引いた視点をもってみようかなと思いました。
一歩引いた視点というのは、
「幸せと思うことは難しいかもしれない、けれど『不幸』ではないのかもしれない」
という視点です。
たとえば、
いまこの瞬間、死ぬ可能性は低いだろうから、『不幸』ではないのかもしれない。
「あなたは余命半年です」と言われたわけではないから、『不幸』ではないのかもしれない。
もちろん、これは自分を思い込ませるだけのことなのかもしれません。
そして、人によっては、なんの解決にもならないでしょう。
ただ、ひとつなにか言えるとすれば、自分なりの解釈をもっていくしかないということでしょうか。
私の場合、道端に一本だけ咲いた花を見て、感じたことがありました。
この花は、どんなに排ガスをかけられていても、懸命に咲いている。
自分は、ここまでの状況にはおかれていないから『不幸』ではないのだと感じたのです。
自分自身が、少しずつでも自分なりの解釈をしていく、その先にふと気づくと
自分なりの《幸せ》の輪郭が、見えるのかもしれません。
《幸せ》の解釈は、人によって違うと思います。
だから、自分にあった解釈を見つけていくことこそ、結果として《幸せ》を感じる近道かもしれないなと思うのです。
文:もくもく
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<目次>
1.『父親は死んだ』とうそをつかれた20年間
2.親に相談できなかった進路
3.私の就職先を偽る家族
4.家族に「負け」を認めたくなかった
5.他人の言動に一喜一憂してしまう
6.自分は生きているのか実感できない日々
7.父親のいない私の離婚と子どもへの罪の意識
8.相談相手は誰でもいいというわけではない
9.自分は本当に不幸なのか
10.自分の軸を持とうと思うとき
11.行動できない自分を認めるということ
12.自己肯定と自己否定に疲れ切ったあなたへ
13.いつも不安と戦うしかないのか
14.欲求を満たしますか、義務感を優先しますか
15.あなたの夢は、本当に必要な夢ですか?
16.生きるとは苦しいことと認める
17.「自信がない」をもたらす真犯人
18.年が変わったからと、目標を立てていませんか?
19.その批判はなんのためですか。
20.ダメな人間は本当にいるの?
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