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『Can't』を受け入れる

 

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虐待の後遺症

 

第15回
『Can't』を受け入れる問いかけ

 
幼い頃から自尊心をつぶされてきたという出来事は、言葉で聞くよりもじっさいにはとても怖ろしいことです。
 
自分を尊重できないということは、自分の感覚、感情、欲求など、なにからなにまで自分を信じることができず、自分をまったくあてにすることができないということだからです。
 
つまり、なにをするにも、基準となるものが自分の外側にあるということです。
 
それは、自分の限界を自分で設定できずに、他人や周囲の情報に決定されてしまうということに他なりません。
 
たとえどんなに努力をしたとしても、周囲から「努力をしていない」と言われれば、努力をしていないことになってしまいますし、どんなに苦しいと思っても「そのていどのことは苦しくない」と言われれば、苦しんではいけないことになってしまいます。
 
自分のなかで自分の感性は完全に無視され、いつの間にか限界を超えていて、それが長年つづくことで心と体が追いつめられていってしまうのです。
 
限界というのは、本来、人それぞれ違うものです。
 
他人や社会が求める限界と、自分の能力や体力の限界というのは、決して一致してはいません。
 
にもかかわらず、他人や社会が求める限界に合わせてばかりいたら、生きるのが苦しくなってしまうのは当然のことでしょう。
 
それは、自分で自分にムチを打ちつづけることと変りないからです。
 
自尊心を育み、自分の限界を感じ取れるようにならなければ、いつまでもそのムチを打つ手は止むことがないのです。
 
これは、「他人や社会が求める限界よりも、自分の限界の方が低い人はみんな苦しいのだ」ということとは論点がちがいます。
 
たとえ、他人や社会という外側の基準より自分の限界の方が低いとしても、自分が限界だと感じたときに、
 
「それは、私にはできません。」
 
「無理です。」
 
「○○さんに、かわりにやってもらった方がいいと思います。」
 
「辞めさせていただきます。」
 
と言える人は、自分をムチ打ちつづけて苦しみつづけることはないでしょう。
 
限界を自分なりにハッキリと把握し、それを尊重することができ、その限界に合わせた行動がとれるなら、心の袋小路に追いつめられることはないのです。
 
問題は「できません」「無理です」と言えない人。
 
言ったとしても、他人や社会によってそれを否定されたときに、途端に「やはり自分が甘えているだけなのだろうか…」と問題の矛先が自分に向いてしまう人です。
 
つまり、幼い頃から自尊心を踏みつぶされて生きてきた人
 
そのような人は、自分の感性を尊重できないため、自分にとって目の前にあることが「できない」のか「無理」なのかもわからない。
 
もし「できない」「無理」だと感じたとしても、その感覚を信じきることができず、外側から圧力によってかんたんに「もっとやらなければならない」と自動的に考えてしまうのです。
 
このように、とことんまで自尊心がつぶされ、しおれてしまっている人は、前回紹介した方法をつづけたとしても、まだまだ自分にとってその強烈な迎合の衝動が『Can’t』であると受け入れることができないかもしれません。
 
どんなに、とことん自分の「努力と苦しみ」を思い知ったとしても、自尊心が回復していくスピードが追いつかず、いつまでも頭の中から「まだ足りない」「もっとやれ」という声が聞こえてくるでしょう。
 
そんなときは、自分に優しくこう問いかけてみましょう。
 
「今日までは、できなかったよね?」
 
つまり、迎合の衝動を抑えることが「できない」のではなく、とりあえず「今はできない」のだということを自分に問いかけてみるのです。
 
たしかに、この先も人生が長くつづいていくとすれば、そのうち今こうして自分を困らせている強烈な迎合の衝動を抑えることができる日がくるかもしれません。
 
毎日の労力のすべてをその努力に費やしたり、新薬が開発されたり、新たな手術法が開発されて、もしかしたら「できる」ようになるのかもしれない。
 
でも、とりあえず今日までのところは「できなかった」。
 
努力を重ねてきたけれど「今は、できない」。
 
永遠に「できない」わけではなく、ひとまず「今はできない」だけなのです。
 
「それでは単なる慰めだ」とあなたは思うでしょうか?
 
では周囲の人が、自分の限界を感じて「できない」と口にするとき、未来に起こるかもしれないすべての可能性を含めて「できない」と言っているのでしょうか?
 
そんなことはありませんよね、
 
みんな「今、できない」から「できない」と言っているはずです。
 
だから、あなたの努力が足りないと言っているあの人も、やればできると言い張っている社会も、「できない」と口にするとき、「永遠にできない」という意味で「できない」と言っているわけではないのです。
 
「今は、できない」ことを「できない」と言っているだけに過ぎません。
 
そのなかで自尊心をつぶされたあなただけが正直に、「未来まで含めて絶対にできない」という意味で「できない」と言わされているのだとしたら、これほどアンフェアなことはないのではないでしょうか?
 
虐待の後遺症をもつ人は、自尊心の正常な発育を許されなかったことから、自分の内なる声よりも、外から聞こえる声を重要なものだと考えてしまいます。
 
自分の感覚、感情、価値観は取るたらないものでしかなく、吹けば飛ぶような軽いものだと
思いこまされてきてしまったのですから、それは当然の反応です。
 
そのため、自分の心が苦しみ抜いた末にたまらずあげた絶叫とも言える悲鳴ですら信じることができない。
 
いえ、そもそもその悲鳴すら自分の耳に届いていない。
 
みずからが悲鳴をあげていることにすら気がつくことができないのです。
 
そして、いつの日かその苦しみがあふれ出し、日常生活を覆いはじめたとき、その苦しみから逃れることばかりを考えるようになります。
 
それがもし迎合の衝動に苦しんでいる人だとしたら、迎合の衝動を抑えることばかりに目が向いてしまうようになる。
 
迎合を止めることばかりに集中してしまう。
 
しかし、思うように止められない。
 
でも、なんとか止めたい。
 
でも、止められない。
 
でも、なんとか止めたい…。
 
そのくり返しの果てに、
いつの間にか迎合を止めること自体が「目的」となってしまうのです。
 
本来迎合を止めるのは、自分が毎日を気もちよく心すこやかに過ごしたいから、つまり「心地よい人生」を送りたいという「目的」のためではないでしょうか。
 
しかし、その迎合の衝動と真正面から組み合い格闘しているうちに、いつしかその格闘に勝つことが「目的」になってしまう。
 
迎合を止めることそのもののために迎合を止めようとするという、「目的」の転倒がおこってしまうのです。
 
私たち人間は、正当な「目的」をもたずしてその行動をつづけることはできません。
 
言いかえれば、意味のない行動をとるのがとても苦手な生き物なのです。
 
その「目的」を果たした先に待っているものが、自分にとって有益なものでなければ、とてもではないですが努力をしていくこともできません。
 
あなたが今このコラムを読み、迎合しなくて済む方法に取り組んでいるのは、それを達成することによって「心地よい人生」を送りたいという「目的」を持っているからではないでしょうか?
 
迎合を止めることそれ自体が「目的」なのではなく、その先に待っている本当の「目的」があるのではないでしょうか?
 
その本当の「目的」を達成するために迎合を止める。
 
迎合を止めるのは、そのための「手段」に過ぎないはずです。
 
だから、今一度その本当の「目的」を見つめてみてください。
 
その上で、自分に問いかけてみてください。
 
「迎合を止めること、少なくとも今日まではできなかったよね?」と。
 
今日までは迎合を止められなかった、つまり今は迎合を止められないのだから、少なくとも今は迎合を止めようとしない。
 
今は迎合を止めることをあきらめる。
 
「ひとまず今、迎合を止められない自分」を認めて受け入れる。
 
つまり、「Can't」だと認めて受け入れる
 
そして、「その自分」で生きていく方法を見出していくのです。
 
「今、迎合を止められない自分」が、どうすれば本当に「目的」を達成することができるのか?
 
そこに力を振り向けることで、虐待の後遺症を振り切るための新たな道筋があなたの目の前に広がってくるのです。
 
次回は、「Can’t」だと認めて受け入れた「その自分」で生きていくための考え方と方法についてご紹介していきます。
 
Brain with Soul代表
生きづらさ専門カウンセラー
しのぶかつのり(信夫克紀)
 

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