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超数派という新しい生き方

 

独自の生き方を表現した画像

 

植物が嫌いという病

 

第1回
植物が嫌いという病

 
私は、植物が苦手です。
 
いや、苦手というなまやさしい言葉では表現しきれないほど大嫌い。
 
それは、
 
「近くにあると落ち着かない」
「なんとなく気に入らない」
 
というレベルとは比べものにならず、とにかく気味が悪くて仕方がなく、植物が置いてある場所では、食べることも眠ることもできず、その姿を直視することすらできません。
 
こうして書いているだけでも、その造形が思い出され、鳥肌が立ってきます。
 
ああ、おぞましい…。
 
世間には、ボタノフォビア(いわゆる植物恐怖症)と呼ばれる症状に悩まされている人たちが存在し、とても苦労をされています。
 
とくにアロエのような、先のとがった触手を思わせる葉が伸びている多肉植物を見ると、怖くて仕方がないという方が多いようです。
 
しかし、私はそのような一般的な植物嫌い(植物嫌い自体一般的ではないのですが)の方たちともちょっと違うようで、「怖い」のではなくとにかく「気持ちが悪い」。
 
おぞましすぎて触るなんてもってのほか、造花でもダメ、植物柄のソファに座ることすらできません。
 
私はゴ〇ブリも大の苦手で、見るだけで身の毛のよだつ思いがするのですが、そのゴ〇ブリよりも植物の方がはるかに気味が悪い。
 
このようなタイプと強度を持った植物嫌いは、自分以外にいまだその存在を確認したことがなく、インターネットで世界中を検索してみたけれど見つけることはできませんでした。
 
そのため、反対に、
 
「自分が植物嫌いであることをインターネットで公表してみれば、同じ悩みを持った人と出会えるかもね!」
 
と胸をときめかせて発信しつづけてみたのですが、そのときめきも虚しく、いまだに同志からの通信は届かず、希望に向けてキラキラと輝いていた瞳も、最近では絶望という名の不純物でにごりはじめています。
 
何十年も宇宙に向けて通信や受信をこころみつづけている天文学者や、あたらしい素粒子を見つけるためにスーパーカミオカンデのデータとにらめっこしつづけている物理学者を、私は本当に尊敬します。
 
ここまでくると、私のような人間は本当に世界中で一人だけなのではないかという思いがしてきており、もしかすると絶滅寸前の最後の一人なのかもしれないと思うようになってきました。
 
しかし、そんな貴重な「絶滅寸前種」であるかもしれない私を、トキやパンダのように保護しようとする気配は一切感じられず、ただただ一人、絶滅を回避する努力をつづけているだけです。
 
そんな私の名も無い「病気」は、先ほども述べたように、さまざまなところでプロフィールとして公表しています。
 
そのため、それを見聞きした方々から、
 
「体の具合が悪くなるのですか?」
「サラダは食べられるのですか?」
 
といった、私の「生態」に関する質問を受けたり、
 
「美しい草花に申し訳ないと思わないんですか?」
「呼吸する権利がないんじゃないですか?」
 
(酸素は植物から発生しているから、ということらしい)
 
といった余計なお世話…、もとい、貴重なご意見をいただいたり、最終的には、
 
「どうやって生きてきたのですか?」
「なぜ、生きていられるのですか?」
 
という、たいへん無遠慮かつ、かんたんには答えようのない大ざっぱな質問を受けることが多々あります。
 
そこで、この機会に、私という植物嫌いの人間がどのような問題を抱え、どのようにそれらの問題に対処し、じっさいにどのように暮らしているのかということを、ほんの少しだけ皆さんにお知らせしてみようと思い立ちました。
 
そして、そのことをとおして、私が自然と選ぶことになった『超数派』という新しい生き方について提案していきたいと思います。
 
超数派とは、
 
「数えられることすらない存在」
「その存在が把握すらされていない存在」
 
という意味です。
 
だから、どんなに人数が少なく地球上で一人しかいない特性をもっていたしても、その特性に社会的な名前がついていたり、おおよその人数が把握されていれば、それは『少数派』であり、このコラムでいうところの『超数派』とは別のものになります。
 
つまり、超数派とは、ものすごくかんたんに言ってしまえば、
 
「え?そんな人いるの?」
 
という存在のことです。
 
その超数派として生きることを「みずから選ぶ」ことで、大きく広がりゆく豊かで濃密な人生を手にすることができる。
 
私と同じような、名も無き「病気」をもつ方のために、この本をとおしてそのような有意義な提案をしていきたいと思います。
 
人に知られることすらない名も無き「病気」を抱えるということは、ともすれば、人生を閉鎖的にしてしまい、貧しくしてしまうものです。
 
そして、自分をそのような苦しい人生に追い込んだ「犯人」として、「社会」や「周囲の人」という『多数派』を恨むこととなる。
 
その結果、全方位を「敵」に囲まれることにもなってしまいます。
 
そのような状況に追い込まれた人に対して、多数派の人たちは、
 
「そんな小さなこと、気にしなくていいんだよ!」
「ありのままの自分でいいんだよ!」
「心を開いて!きっとわかってもらえるから!」
「もっと自由に生きようよ!」
 
と優しい励ましをおくります。
 
しかしそのような励ましは、「病気」をもつ人を結果的には、さらに追い込んでしまうことになります。
 
なぜなら、その「小さなこと」を決して許容しようとしないのが、なにを隠そう多数派自身であり、「ありのままの自分」で生きようとすると猛烈に拒絶してくるのも多数派自身であり、「心を開いて」正直に話をしたら「わがままを言うな!」としかりつけてきたり「あははは!」と嘲笑してくるのも多数派自身であり、「自由に生きよう」としても「もっとみんなに合わせなきゃダメ!」と拘束してくるも多数派自身だからです。
 
つまり、励ましを鵜呑みにして実行しても、その励ましを口にした本人たちによって、それを全力で否定され拒絶されてしまうのです。
 
拒絶されるので閉じこもったら「出ろ」と言われ、いざ「出る」と拒絶される。
 
そしてまた閉じこもると「出ろ」と言われ、「出る」と拒絶される。
 
これをくり返すことで、「病気」をもつ人は、「社会」や「周囲の人」という多数派への恨みつらみを重ねて、より人生を閉鎖的で貧しいものにしてしまうという、たいへん苦しい循環へとハマっていってしまうのです。
 
ただしそれは、多数派という実体のない相手に対して、自分もその輪に加わろうとするから。
 
また、加わわろうとはしなくとも、ちゃんと自分という存在を認識して欲しいと願うからおきてしまう悪循環です。
 
つまり、多数派になろうとしたり、少数派になろうとするからこそ、悪循環にはまってしまうわけです。
 
そして、そのように願うのは、群れの中で生きる人間という動物として、とても当然なことだと言えるでしょう。
 
だからこそ、その当然のことを目指す人生を上手にあきらめて『超数派』という新しい人生を選ぶ。
 
超数派にしか生きられない、非常にレアでオリジナリティ高い人生を生きる。
 
そこでしか味わえない濃密なよろこびを得る。
 
この本では、そんな味わい深い生き方を提案していきたいと思います。
 
このコラムが公開されることによって、私のような超数派の人たちが、少しでもご自身の人生を豊かで濃密なものにするきっかけを得ていただけたらうれしく思います。
 
そして私に対しての余計なお世話…、もとい、たいへん興味深いご質問やご意見が、少しでも減ることを願って止みません。
 
Brain with Soul代表
生きづらさ専門カウンセラー
しのぶ かつのり(信夫克紀)
 

 
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