超数派という新しい生き方

 

独自の生き方を表現した画像

 

植物が嫌いという病

 

第5回
誰もが超数派

 
前回みたとおり、それぞれの人の感性がもつさじ加減というのは、非常に微妙なものです。
 
そのさじ加減のバランスが人々の想像を超えているとき、超数派は生まれるのです。
 
とは言え、それは珍しいことではありません。
 
感性のもつさじ加減というものが、もともと非常に微妙なものである限り、誰もが一つやふたつ、人と共有できないような独特な感性をもっているのではないでしょうか。
 
どこかでじっさいに話してみたら否定されたり、話すことすらもはばかられるような微妙な感性を誰もがもっている。
 
それがいたって「普通」のことなのではないかと思います。
 
そう考えると、誰もが超数派なのです。
 
たとえば右手をどこかにぶつけると左手も同じくらいの強さでぶつけないと気が済まない、
でも足ならまったく気にならないという人もいるでしょう。
 
そして、トイレで排泄するとき右足のカカトをあげていないと用をたすことができない、しかし和式便所のときは左足のカカトをあげたくなるという人もいるかもしれません。
 
また、そこまでややこしくなくても、人の家で出された野菜炒めだけはどうしても食べらないという人や、ラーメン店のコップだけは絶対に使いたくないという人もいるかもしれません。
 
超数派とは人数で決まるわけではありません。
 
その感性をもつ人がどれだけ少ないかではなく、今あげたような、本人から告白されない限り存在することが想定できないような感性もっているということ。
 
つまり、数えられることのないほど微妙な感性をもっているのなら、その感性においてその人は超数派であるということなのです。
 
だから、じっさいに目の前にいる三次元の女性よりも、アニメやゲームの中の二次元の女性の方に恋をしたり性的な興奮を覚えるという人も、以前は超数派でしたが、今ではすっかりその感性の存在について知られるようになり、「2次ヲタ(ニジオタ)」という命名までされているので、今では「少数派」と呼べるでしょう。
 
超数派とは、未知の驚きと興味をもたらすような名も無き感性をもつ人のことなのです。
 
そして、そのような独自の感性をもっていること自体は「当たり前」であり、とりわけ珍しいことでもなんでありません。
 
なぜなら冒頭に述べたとおり、感性というもの自体が「非常に微妙なものである」という意味をそのなかに含んでいるからです。
 
そう考えると、必ずしも超数派であるから孤独だとか、超数派であるから生きづらいというように、「超数派=悩み多き人生」という重苦しい図式が成り立つわけではないのです。
 
想定されることのないほど微妙で、誰からも驚かれるような感性であったとしても、表立ったトラブルにみまわれることのない超数派もいる。
 
もしかしたら本人すら気づいておらず、人生において「実害」のほとんど発生しない超数派的感性がたくさんあるのです。
 
ではどのような感性の場合に、超数派であることの「実害」が出てきてしまうのでしょうか。
 
それは、その感性のさじ加減のなかに「多数派と正反対の感性」が含まれている場合。
そして、その感性が「社会生活に密着している」場合です。
 
まさに私の「自然は大好きだが、植物が嫌いで、気味が悪くて仕方がない」という感性は、その二つの特徴をもった、もっともわかりやすい例の一つと言えるでしょう。
 
そのような感性をもつ場合に、超数派ならではの多くの「実害」が日々発生してくるのです。
 
では、その超数派にとっての「実害」とは具体的にいったいなんなのか?
 
次回は、そのお話しをさせていただきたいと思います。
 
Brain with Soul代表
生きづらさ専門カウンセラー
しのぶ かつのり(信夫克紀)
 

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