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超少数派という新しい生き方

 

独自の生き方を表現した画像

 

植物が嫌いという病

 

第10回
双方を受容する

 
自分の超少数派的な感性が、
相手に「まったく」
通じていないと痛感したとき。
 
いったいどのようにすることが、
超少数派として生きることを
自ら選んでいると言えるのでしょうか?
 
たとえば前回ご紹介したような
「言ってるそばから…」
という問題が起きたとき、
主に次の四つの対応方法が
考えられるでしょう。
 
1.許す
2.引き下がる
3.主張する
4.理解させる
 
この中にある、1の「許す」は、
「相手の立場」に立ち、反対に、
2.「引き下がる」、
3.「主張する」、
4.「理解させる」は、
「自分の立場」に立った
対応方法だと分類できるでしょう。
 
前回の例で言えば、
1の「許す」を選んだ場合は、
次ぎのように考えることになるでしょう。
 
「受付係という仕事も忙しいんだし、仕方ないよな。目をつぶるか。」
「この人だって、こっちの感性が解らないだけなんだよね。許してあげよう。」
 
一見、
とても寛大な対応に見えますが、
私はこのような態度が、
どうしても苦手で好きになれません。
 
それは、
どんな理由をつけるにせよ、
相手を「許す」という行為は、
 
「間違っているのは確実に相手の方である」
 
と一方的かつ傲慢に
決めつけることに他ならず、
さらに、
 
「にもかかわらず、私は許してあげるのだ」
 
という傲慢さをも
含んでしまうことになるからです。
 
いくら「相手の立場」に立ったとしても、
「許す」と思った時点で、
自動的に自分は正しい側に立ち、
相手を断罪することに
ならざるをえないのです。
 
このような考え方は、
私たちの持つ、
多数派特有の傲慢さとほぼ同様のもの。
 
わざわざ超少数派としての
生きようとしている人間にとって、
この選択をとる必要は見当たらないでしょう。
 
次に2の「引き下がる」ですが、
これも同じ状況を例にとってみましょう。
 
この場合次のような考えが
浮かんでくることがあります。
 
「あらためて説明するのは面倒くさいな。」
「ここでもめたら、あとあと気まずいな。」
「もはや怒る気力がわかない。あきらめるか。」
「なんども自分の珍しい感性について口にするのは、恥ずかしい…。」
 
そんな思いが浮かんできて、
結局「引き下がる」ことにします。
 
ここで席を立ってしまうと、
相手に暗に「主張する」ことになるので
ただ黙ってひたらすら、
同じ席で待ちつづけるわけです。
 
これは外側から一見すると、
「何もしない」わけですから、
「許す」と同じ対応方法に見えます。
 
しかし「引き下がる」場合は、
完全に「自分の立場」に立っています。
 
その動機が違うわけです。
 
ちなみに私は、
この考えが非常に強い人間です。
 
植物嫌悪症を抱えて長年生きてきて、
引き下がった方が話しが早いことが
確実に多かったという経験もありますし、
やはり、この感性のために嘲笑されたり、
しかられることがとても多かったせいか、
やはり「恥ずかしい」という気持ちが
どうしても消せないのです。
 
しかし、
この選択をとってしまえば、
いわゆる「泣き寝入り」を
くり返すことになり、
精神衛生上とてもよい生き方とは
言えないでしょう。
 
超少数派という生き方が、
そのような単なる、
 
「譲歩の連続」
 
であるならば、
わざわざ目指す価値が
あるとは思えません。
 
そこで出てくるのが、
3の「主張する」と、
4の「理解させる」という対応方法です。
 
これも「引き下がる」と同じように、
「自分の立場」に立った対応ですが、
明確にアクションをおこしますので、
今までの対応方法とは大きく違ってきます。
 
今回の例のように、
ホテル側から受けた対応にたいして
「主張する」のであれば、
 
「私は、植物が苦手なので、この席で待つことはできません。」
 
と毅然と言い放って
席を離れることになるでしょう。
 
また、植物に
近寄れなさそうな素振りを見せつつ、
 
「チラッチラッ」
 
と相手を見やることで、
相手に気づかせるように
「主張」するかもしれません。
 
もしくは先ほど述べたように、
何も言わずに立ち去り、
 
「無言で主張」
 
することもできるでしょう。
 
ホテルの客という
圧倒的に有利な立場で
この選択をとった場合、
たいていは相手から、
 
「申し訳ありません!」
 
と深々とした謝罪を受けることができて、
気分スッキリの爽快体験が
できるかもしれません。
 
しかし、そんな体験は、
ホテルのような接客こそが
命であるサービスを
提供しているところに行って
クレームをつければ、
誰もが体験できることです。
 
これもわざわざ、
超少数派として生きるために
選択しなくてもよい対応方法でしょう。
 
残るは4の「理解させる」ですが、
これがもっとも超少数派として
ふさわしくない選択肢です。
 
「私にとって植物が、どれほどまで不快な存在なのか解らないのですか?この感性のせいで、私が、どれほど苦しんできたと思うのですか?にもかかわらず、言ってるそばから、植物の近くの席に案内するなんて、どういうつもりですか?なぜ、あなたは解らないのですか!」
 
このように自分の感性と
そこから生じる苦しみへの
共感や同情を求めることは、
自ら超少数派である立場を
捨てようとすることに他なりません。
 
なぜなら、
相手からの理解を求めた時点で、
それは超少数派ではなく、
自分の感性を社会的に認知して、
 
「少数派」
 
にしてくれと、
願い出ていることと同じだからです。
 
もちろんそれは、
悪いことでも何でもありません。
 
ただしこのコラムは、
超少数派として生きることを
自ら選ぶこと、
そしてそこに生じる豊かな、
 
「レアな人生」
 
を手に入れることを目的としています。
 
その目的と、
「理解を求める」という行為は、
どうしても相反してしまうのです。
 
もちろん自分の感性について
表明する必要があるときもあるでしょう。
 
そうしなければ阻止できない
「実害」も多々あります。
 
私はその目的もあって
このコラムを連載していることは、
すでに述べたとおりです。
 
ただ、その場合であっても、
相手からの理解を求めてはいけない。
 
必要最低限の相手の対応さえ
引き出せればそれでいい。
 
ましてや、
自分を一方的な被害者の立場に置き、
 
「なぜ解らないのか!」
 
と相手を責めるだけでは、
「許す」ケースで述べたのと同じ、
多大な傲慢ささえ加わってしまいます。
 
そのような対応に、
あえて超少数派として生きる意味が
あるとは私には思えません。
 
では、いったい
どうすればいいのでしょうか?
 
「相手の立場」に立ってもダメ、
「自分の立場」に立ってもダメ。
 
他にどんな
対応方法があるのでしょうか?
 
それは、
 
「双方を受容する」
 
という対応方法です。
 
「相手の立場」も否定せずに受け入れ、
「自分の立場」も否定せずに受け入れる。
 
そして、
その双方の立場を受容したからこそ
可能となる行動を探しあてようとする。
 
もともと
相反している考えゆえに発生した
目の前の不調和に対して、
どちらか一方の味方をしたり
どちらか一方を断罪することなく、
その矛盾を抱えたまま、
新たなる選択肢を生み出そうとする。
 
つまり、
 
「葛藤の渦の中」
 
に自分を蹴り落とすのです。
 
ここにこそ、
超少数派として生きる醍醐味がある。
 
「レアな人生」にしか手に入らない
貴重な経験がある。
 
私は、そう考えています。
 
では実際に、ホテルの方に
植物のそばのソファにとおされた際に、
私はいったいどうしたかというと、
 
「あ、ちょっとおみやげ見たいので、そこのおみやげコーナーにいます。準備ができたら呼んでもらってもいいですか?」
 
と頼んで、そこを立ち去りました。
 
「え?た、たったそれだけのこと??」
と思いましたでしょうか?
 
私は、「許す」ことで、
自分を納得させるのは嫌でした。
 
先に述べたとおり、
せっかく謝ってくれているのに、
そんな傲慢な態度を取る気には
どうしてもなれません。
 
でも、この状況において
不愉快にならないほど
人間はできていませんし、
これ以上その場にいたくもありません。
 
と言いながらも、
また植物嫌悪症の説明をするのは、
やっぱり恥ずかしい。
 
そのような、
相手が謝ってくれたという行動も、
自分が不愉快であったり
恥ずかしいと思う気持ちも、
どちらも大事にあつかいたい。
 
そのために、
 
「双方を受容する」
 
という選択をしました。
 
それは、
 
「双方を許容する」
 
ということとは違います。
 
相手のことも、自分のことも、
「大目に見た」わけではありません。
 
謝ってもらったところで
やっぱり不愉快なものは不愉快ですし、
そんなふうに不愉快になってしまう
自分の心の狭さや、
今さら恥ずかしいと思ってしまう
心の癖も「それでいい」とは思えません。
 
だから「受容」する。
 
「相手の立場」でとった行動も、
「自分の立場」で感じた思いも、
事実として単純に受け容れる。
 
両方の立場をそのまま受け容れて、
その上で解決策を探ったのです。
 
短い時間なりに濃密に。
 
そして、その結果生まれたのが
先ほどの対応です。
 
なんてことはない、
よくある対応ですよね。
 
しかし、自分の感性が
まったく通じない状況のなかで、
 
「双方を受容する」
 
ことをあえて選ぶということ。
 
そして、
その途上にある葛藤を充分に味わい、
そこから生みだされた対応方法を
自覚的にとること。
 
それこそが、
超少数派として生きる
「レアな人生」の醍醐味なのです。
 
 
Brain with Soul代表
信夫克紀(しのぶ かつのり)
 


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