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「本物時間」との出会い

 

嫌われてよかった最終回 本物時間との出会い

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嫌われてよかった

 

最終回
「本物時間」との出会い

 
嫌われたまま生きることを選んだ人が出会うことのできる、人生においてかけがえのない宝。
 
その一つ目は、「ソウルメイト」でした。
 
今回はいよいよ、その二つ目をご紹介します。
 
それは、
 
「本物時間」
 
です。
 
私はこの連載のはじめに、「本物時間」は私たちが豊かに、そして濃密に生きるための決してブレない道しるべだと述べました。
 
それに触れるだけで、自分の人生がまさに「本物」だと感じられる、そんなかけがえのない時間。
 
嫌われたまま生きるということは、その「本物時間」に出会うためのものであると言っても、決して言いすぎではありません。
 
「本物時間」はふとした瞬間に訪れます。
 
川の流れの中に生じた小さな渦巻きを、橋の上から眺めているとき。
 
池に浮かぶ水鳥のしなやかな動きを見ているとき、
 
夏草の匂いを感じながら、セミの鳴きはじめる声を耳にしているとき…。
 
「ああ、この時間こそが本物なんだな。あとはすべてつくり物。偽物の時間なんだ。」
 
そんな疑いようのない実感が、空っぽになった自分の心にふと入り込んでくる、そんな感覚。
 
それは決して自ら得よう思って得られるものではなく、時間の方から自分に語りかけてくるもの。
 
目の前の情景になぜか心奪われて、思考も感情も余分なものがすべてそぎ落とされたそのとき、「本物時間」はやってきます。
 
その瞬間私たちは、心のひだまでも埋め尽くすような充足感を味わうことができるのです。
 
この「本物時間」を感じる瞬間は、あまりにも綺麗な自然の景色を目の前にして感動し打ち震える感覚とはまったく違います。
 
「本物時間」を感じるとき、私たちはあるものを実感しているのです。
 
それは、
 
『容赦のなさ』
 
です。
 
とかく私たち現代の日本に生きる人間は、この世界における良い面ばかりを本物だと信じたがる傾向があります。
 
美しいこと、うれしいこと、楽しいこと、優しいこと、おだやかなこと、好かれること、それこそが私たちの得るべきものであり、それを追いかけさえすればいい。
 
そして、そのような良い面だけで人生を埋め尽くそうと、必死になっているのではないでしょうか。
 
しかし実際のこの世界は、そのように生易しくはできていません。
 
良い面と同じように、醜いこと、悲しいこと、苦しいこと、腹立たしいこと、激しいこと、嫌われることといった、目を背けたくなるような面もあふれ返っています。
 
必ず『両極』が存在しているのです。
 
確かに、この世界は美しい。
 
その美しさには容赦がありません。
 
しかし同時に、この世界は容赦がないほど醜い。
 
そして、容赦がないほど優しく、容赦がないほど残酷。
 
容赦がないほど穏かで、容赦がないほど激しい。
 
容赦がないほどの好意があり、容赦がないほどの嫌悪がある。
 
その「容赦のなさ」こそが、この世界の本質であり、その両極を感じる瞬間が、
 
「本物時間」
 
なのです。
 
たとえば、川の流れの中に生じた小さな渦巻きを、橋の上から眺めているとき。
 
そのせせらぎの優しい響きと、なめらかな川面の動きに目を奪われ、容赦のないほどの穏かさを感じます。
 
しかし、その同じ水が大洪水を起こし、容赦なく私たちを街ごと飲み込んでしまう。
 
また、池に浮かぶ水鳥のしなやかな動きを見ているとき。
 
容赦のないほどの愛らしさと、自然の豊かさを感じます。
 
しかし、その水鳥のくちばしには、今にも食べられようとして容赦のない恐怖を感じ阿鼻叫喚している虫がいる。
 
そして、夏草の匂いを感じながら、セミの鳴きはじめる声を耳にしているとき。
 
懐かしい思い出とともに、容赦のないほど楽しさや切なさがこみ上げてきます。
 
しかし、その夏草の匂いは人間に刈り取られ容赦なく命を奪われた草花の匂いであり、セミの声はわずかな期間で容赦なく死を迎える前になんとか子孫を残そうとしている命懸けの絶叫なのです。
 
嫌われ上手」な人は、このような『両極』を感じ取るセンスが、自然と磨き上げられています。
 
なぜなら、人間関係で苦しみつづける中で、奇麗事だけでは済まされない、この世界の本質を感じ取る力が自然と身についているからです。
 
さらに、嫌われたまま生きることを選び、「心の空間」の中で、あらゆる「物言わぬ親友」と語らうことをとおして、良い面においても、目を背けたくなる面においても、その『両極』において、「容赦のなさ」を感じ取る力を大きく飛躍させています。
 
嫌われたまま生きることを選んだ「嫌われ上手」な人は、この世界の「容赦のない両極」を感じ取り、その「本物時間」の中で豊かに生きる能力を知らず知らずのうちに育んできたのです。
 
それは、ただ単に斜に構えて訳知り顔で、「世の中ってしょせん、ろくでもないものだよね」と口先だけで語っている人たちとはまったく違います。
 
そのような人のほとんどは、実は自分の心の弱さを隠すために強がっているか、思いどおりにいかない人生を世の中のせいだけにしているに過ぎません。
 
「本物時間」は、そのような安全地帯から発せられる一面的な「偽ニヒリズム」ではありません。
 
「本物時間」は、容赦のないこの世界の中において、今、この瞬間、生を与えられていること、そしてそれをよろこびとして、苦しみとして、また簡単には打ち捨てられない責任として目の前に突きつけられる切実さを持っています。
 
人生とは、その「本物時間」を生きるためにあるとすら言うことができるでしょう。
 
それを感じたことがある人ならば、誰もが同じことを口にするはずです。
 
「本物時間」で、自らの生を埋め尽くすこと。
 
それが、人生の意味なのです。
 
それは、「生きる意味」とはまた異なるもの。
 
「生きる」という行動ではなく、人生という器そのものに生じている意味。
 
「本物時間」を感じ取り、その意味を実感するとき、私たちは「人生の芯」と「自己の芯」が完全に重なり合ったような、強烈な一体感を味わい、これこそが人生なのだという疑う余地のない充足感を味わうことになるのです。
 
それに比べて、「つくり物時間」のなんと虚しいことか。
 
それは、現代の人間の価値観に振り回されているだけの時間。
 
その狭い価値観に振り回され、より多くの快楽を手に入れようとして、より良い会社に入ろうとして、より高い収入を得ようとして、より美しいパートナーをものにしようとして、より立地のいい家に住もうとして、よりおいしいものを食べようとして、よりたくさんの人に好かれようとして、そのために自分の大切な心や体を押しつぶして、すり減らして、欲求不満とストレスをつのらせて…。
 
それはまるで、コーヒーのうわばみだけを
すすりつづけているようなものです。
 
確かに私たちは、気がつくとすぐに、この「つくり物時間」に巻き込まれてしまいます。
 
それが誰にとっても日常でしょう。
 
ものごころがついたときには、社会の中心が「つくり物時間」の価値観で動いていたのですから当然のことかもしれません。
 
だからこそ「嫌われ上手」は、嫌われやすいゆえに、その「つくり物時間」から離脱できる貴重な能力を持っていると言えるでしょう。
 
なぜから、その「つくり物時間」の価値観が当たり前になっている大多数の人々と距離を置いて生きていけるのですから。
 
そして、それによって、膨大な「命」を手に入れて、「本物時間」と出会う機会をたくさん得ることができるのですから。
 
あなたも「本物時間」で人生を埋め尽くしてみたいと思いませんか?
 
あなたがもし、嫌われたまま生きることを選び、「本物時間」に触れたとしたら。
 
その瞬間に、それが「本物時間」であると、すぐにわかるはずです。
 
あなたの心が、いえ、魂が震えるからです。
 
そして、
 
「間違いない、これが本物時間だ…。」
 
と確信することでしょう。
 
それと同時に、まるで体の細胞すべてと、心の器のすべてに、この世界の本質という濃密な液体が満たされていくような充足感を味わうことになるはずです。
 
そのときあなたは、きっと、魂の奥底からこう実感するでしょう。
 
「嫌われてよかった…」と。
 
Brain with Soul代表
生きづらさ専門カウンセラー
信夫克紀(しのぶ かつのり)
 

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