「物言わぬ親友」に囲まれる
嫌われてよかった
第11回
「物言わぬ親友」に囲まれる
今回は、「嫌われたまま生きる三つのメリット」のうち、二つ目のメリットをご紹介します。
あなたが、苦しみを生み出す「人間関係」から離れると決め、それを実際に生活の中で実践していったとき、まず最初に感じること。
それは、さみしさ…、かと思いきや、たいていの場合は別の感覚に包まれます。
それは、解放感。
しかも、今まで感じたことのないほどの、強烈な解放感です。
今まで、人といるたびに神経をすり減らしていたこと、何とか「自然」に振るまえるように努力していたこと、にもかかわらず嫌われてしまい心を痛めていたこと、相手に不快な思いをさせて落ち込んでいたこと…。
それらのことから、一気に解放されたことで訪れる圧倒的な爽快感。
嫌われたまま生きることを選んだ人は、自分をきつくきつく縛りつけていたロープがほどけ、生まれて初めて何の抵抗もなく自由に体が動かせることを知ったかのような、そんなよろこびに全身を包み込まれるでしょう。
ただそのよころびを感じながらも、日々、会社や学校の「人間関係」に接していると、どうしても人の目が気になってしまう。
いつも一人でいて変なヤツだと思われていないか、急に誘いを断るようになって「感じが悪い」と悪口を言われていないか…。
そんな居心地の悪さが、よろこびをかき消していってしまうこともあるでしょう。
とくに「嫌われ上手」な人は、人の目、人の噂に敏感です。
またしても自分が何かやらかしてしまったのではないか、自分のことを悪く言われているのではないか、そんなふうに、いつも心のどこかで怯えています。
たとえ「人間関係」から離れると決めても、その感覚はなかなか消えてはくれません。
そしてその感覚に追いやられて、やっぱり一人はつらい、さみしいと強く感じてしまうのです。
でも、もう苦しい「人間関係」には戻りたくない。
あの解放感を知った以上、あそこに帰っていくつもりにはどうしてもなれない。
一人はつらいという感情と、一人でいたいという感情。
そんな正反対の二つの思いに板ばさみにされるとき、次のように感じることがあります。
「誰か一人でもいい。自分のことをわかってくれて、そばにいてくれる、そんな親友がたった一人でもいてくれたら、人間関係を離れる勇気が湧いてくるのに…」と。
たしかに、「人間関係」と距離を置くからといって、この世界の中で完全に人付き合いを断ち切れるわけではありません。
日々、人の手を借り、また自分も人を助けながら、互いに支え合って生きていく必要があります。
会社で仕事をするにしても、電車一つ乗るにしても、多くの人がそこにたずさわっている。
「人間関係」と距離を置くためには、その中であえて一人でいる強さが必要になります。
そのときに、「この人がいてくれるから大丈夫」と思える存在がいてくれたら、どれだけ心強いでしょう。
自分にはこの人さえいてくれれば、他人からどう見られても平気、そんなふうに思えるような、いわゆる、
「親友」
とも呼べる相手がいれば、「人間関係」の中でも一人で強く生きていくことができるはずです。
ここで、「人間関係」と距離を置くことを選んでおきながら、「親友」を欲しがるなんて都合よすぎるだろう、そんなふうに感じる人も多いのではないでしょうか。
しかし、「人間関係」から距離を置いたからとって、「親友」ができないわけではありません。
いえ、むしろ「親友」をつくりやすい状況になると言えるでしょう。
それが、嫌われたまま生きる二つ目のメリット。
「物言わぬ親友に囲まれる」です。
嫌われたまま生きることを選んだ人は、前回ご紹介したとおり、すでに膨大な「命」を手に入れています。
その時間を、「親友探し」に使うことができるのです。
といっても、そこでまた仲間探しのためにスポーツのサークルに入ったり、習い事をはじめて、別の「人間関係」を増やしてしまうのでは今までと何も変わりません。
だから、ここで言う「親友探し」の相手は人ではありません。
本や、映画、音楽、絵画、彫刻、アニメ。
つまり、
「作品」
です。
それはこちらが求めない限り、必要なこと以外は一切口にしない、「物言わぬ親友」。
しかし、ひとたびこちらが支えを求めれば、この上ない重要なことを教えてくれます。
しかも、その親友は、膨大な数から選ぶことができる。
そして、あなたが「親友だ」と認めさえすれば、いつでもそばにいてもらうことができるのです。
たとえば、小説や映画の主人公にはあらゆるタイプの人物がいます。
その人がポツリポツリと語り出すセリフの中には、あなたの心を慰め、ときに励まし、
奮い立たせてくれるものが必ずあるでしょう。
同じように、自分の感性に比較的似ているエッセイスト、コラムニストを見つけて、その人の本を何冊も読んでみれば、その言葉の中に、あなたを支える具体的なアドバイスが記されているでしょう。
また古典的なクラシック音楽や絵画などの芸術作品は、個人という枠を越え、この世界の本質を表現しようとしているものばかりです。
日本のアニメも、ただ面白がらせる、ただ感動させるのではなく、人間の存在そのものを問うことを題材としているものが多く見られます。
そのような重厚な「作品」に触れ、自分という存在そのものを見つめることは、ことのほか人生に深みと濃密な充実感を与えてくれます。
そして、「作品」という名の親友は、あなたが求めさえすれば、嫌な顔せず、何度でも、その励ましやアドバイス、充実感を、あなたにもたらしてくれます。
さらに、「嫌われ上手」な人には、それらを存分に味わうことのできる、自由かつ膨大な「命」が与えられているのです。
美術館に行くと、この世界の根源がにじみ出てきているかのような濃厚な作品の前を、何人かで楽しくおしゃべりながらサラッと通り過ぎていく人たちを多く見かけます。
それはその人たちの楽しみ方なので、まったくよいと思うのですが、せっかく、「物言わぬ親友」が目の前にいるのに、なんてもったいないことだろうという思いがします。
そのような場で熱心に見入っている人は、たった一人で来ているものです。
もし、あなたが「嫌われ上手」な人なら、あなたは「人間関係」を良好にするために、今までさまざまな工夫や努力を重ねてきたことでしょう。
人のせいにして終わらせることなく、自分の内面を見つめ、自分を変えようと必死で頑張ってきたはずです。
言うなれば、「自然」に人間関係を保てる周囲の人たちにくらべて、あなたの方がよほど真剣に人生に向き合ってきた。
にもかかわらず、なぜあなたの方ばかりが嫌われなければならないのでしょうか?
なぜあなたばかりが責められなければならないのでしょうか?
そんなにも価値観や感性が違う人たちと一緒にいる必要なんてない。
その人たちの中から、無理に気の合う仲間や親友を見つけようとする必要なんてない。
そうは思いませんか?
だってあなたには、数えることのできないほどの「物言わぬ親友」たちが、あなたとの出会いを、今この時も待っていてくれるのですから。
Brain with Soul代表
生きづらさ専門カウンセラー
信夫克紀(しのぶ かつのり)
おかげ様でコラム数500本突破!