自分のために人の役に立とう
(ただし押しつけにならないように)
人の役に立つ。
そうすれば「生きづらさ」から脱け出せる。
そう言われて、あなたは信じることができるでしょうか?
もし信じるのなら、ぜひこのコラムを最後まで読んでみてください。
もし信じられないのなら。
やっぱり、このコラムを最後まで読んでみてください。
そこに、生きづらさの「最後の一線」を越える方法が記されています。
それでは、はじめましょう。
キレイゴトは聞きあきた!
もうキレイゴトは聞きあきた。
あなたはそう感じたことがありませんか?
「お客様のために!」
「あなたの笑顔のために!」
「子供たちの未来のために!」
そんな言葉を耳にすると、
「嘘つけ!本当は自分の利益のためだろう!」
と感じてしまう。
結局みんな自分のために生きているんだろう、と。
じつは、私もそう感じる人間の一人です。
子供のころ、コンビニで公共料金の支払いサービスがはじまったときのこと。
店内で放送される、
「お客様のために、ますますサービスを充実させました!」
という声を聴いて違和感を覚えたのです。
「店にお客を呼び込んで、自分たちの利益を増やすためだろう」と。
う~ん、イヤな子供ですね(笑)
ただ、それからずっと、その違和感が消えることはありませんでした。
人は「自分のため」にしか生きられない
そんな私は、やがて生きづらさに苦しみながら生きるようになりました。
そして考え抜いたあげくに、一つの結論に至りました。
「人は結局、自分のためにしか生きられない」。
人のためになにかをしてあげても、その人のよろこぶ顔を見てうれしくなるのは自分。
結局は自分のためにしてあげているのだ。
純粋に「人のため」を成立させるためには、大嫌いな人のためにやりたくないことをしてあげるしかないのだ。
それはとてもではないがつづけられない。
だから、どんなにいい人そうに見えても、どんな善行であっても、その人は自分のためにやっているに過ぎない。
それを隠して、
「お客様のために!」
「あなたの笑顔のために!」
「子供たちの未来のために!」
と声高に叫ぶ人たちの偽善が耐えられない。
その偽善に気づこうともしない人たちの無邪気さが耐えられない。
そうして私は「自分のため」を追求して生きることにしました。
「自分のため」を突きつめたら幸せになれた
この手の話、ふつうなら次のようにつづくでしょう。
「その結果、心はすさんで孤独になり、はじめて気づいた。人のやさしさと愛の大切さに・・・。そう、幸せになるためには、自分のためではなく誰かのために生きていくしかないのだと・・・」
しかし、私はそうはなりませんでした(笑)
だって、それでは「結局これって偽善だろう」という振り出しに戻るだけですよね。
私は違う結論に至ったのです。
それはキレイゴトのない「事実」でした。
そして、自分の進む道が見えてきて、最終的には幸せになることができたのです。
では私が至った結論とは、どんな結論だったのか?
それは、
「自分のためを突きつめると、最後は人のためになる」
という事実です。
まず「自分のためだけ」に行動していると、そのいやらしさに自分が耐えられません。
どうしても人をないがしろにすることになるからです。
そして、周囲の人たちからも文句を言われたり攻撃されたりします。
それは不愉快で「自分のため」にならないので、「人のため」にもなるようにバランスを取る必要が出てきます。
そうやって「自分のため」になるかどうかをシビアに判断しながら生きていくと、「人のため」に行動した方が「自分のため」になるのです。
ただし、この結論てとくべつなことではないですよね。
先ほどのコンビニの例となにも変わりません。
言い方を変えたていどのことでしかない。
でも、私にとってはそれが必要でした。
「自分のためだけ」でもない、「人のためだけ」でもない。
「自分のため」と「人ため」を、すっきり整理させてくれる納得が必要だった。
それが「自分のためを突きつめると、最後は人のためになる」という結論だったのです。
その結論にたどり着いたおかげで、私のなかに「人のため」になにかをしようという気もちが湧いてきました。
なんだ!?自分のために人に親切にしていいんだ!
さらに、その気もちを後押ししてくれる情報を耳にしました。
それは、私たちが人に親切にして人の役に立つと、脳から「オキシトシン」という物質が放出されるということ。
そのときに私たちは、心が温かくなり幸せな気分になっているというのです。
「なんだ!人の役に立つとモロに自分のためになるじゃないか!」
「自分のために親切にしていいんだ!」
「うおぉ~、人の役に立ちたい!親切にしたい!」
そんなふうに思って、やたらと盛り上がってしまったことを覚えています(笑)
一気に視界がひらけた気がしました。
そして、自分にもなにかできることはないかと本気で考えはじめたのです。
自分を犠牲にしすぎないように気をつけよう
ただここで注意をしなければならないことがあります。
それは、人の役に立とうとするあまり、自分を犠牲にしすぎてしまうことです。
自分を犠牲にしすぎれば、当然苦しくなります。
それは「自分のため」になりません。
そうなったら本末転倒です。
とくに生きづらい人は、そうなる傾向が強いので注意が必要です。
なぜなら、生きづらい人は承認欲求が大きくなっていることが多いので、人の役に立つ行動の抑えがきかなくなる。
人への親切が止まらなくなるのです。
そうして、気がつくと心身ともに大きな犠牲を払っていて、結局苦しくなってしまう・・・。
だから、生きづらい人が人の役に立つときには、慎重におこなわなければなりません。
人の役に立つのは「自分のため」でもあるのだという基本を忘れてはなりません。
つまり「私は人のために頑張っている!」という偽善に酔ってはならない。
あくまでも「結局は、自分のためにもなってるんだよな」という感謝と申し訳なさをもちつづけることを忘れてはならないでしょう。
人がよろこんでくれたら、一歩下がって冷静になるくらいがちょうどいいのです。
生きづらさの「最後の一線」を越えさせるもの
ただし、とまどっているヒマはありません。
生きづらい人は「人の役に立つ」ということを積極的に人生に取り入れていく必要があります。
なぜなら、「受け取る側」にいるかぎり生きづらさからは脱け出せないから。
人の役に立ってこそはじめて得られる深い「充実感」がある。
それが、生きづらさの「最後の一線」を越えさせてくれるのです。
かといって、やみくもに人の役に立とうとしつづけるのはとても骨が折れますよね。
現実的ではないでしょう。
だから、生きづらい人は、
「自分のためにやっていることが、自然と人の役に立ってしまう」
という流れをつくることが重要になってきます。
「自分のためにやっていることが、自然と人の役に立ってしまう」。
そんな仕組みを、人生のなかに組み込むことが必要なのです。
これがキレイゴトのない、生きづらさ脱出の事実です。
私はこの流れに「ジニアスエゴイズム(天才的な利己主義)」と名づけました。
ジニアスエゴイズムという仕組みづくりに、本気で取り組むことができるかどうか。
そこが、生きづらさから脱け出せる分かれ道だと言ってもいいでしょう。
役に立つ相手をしっかり選ぼう
ここでもう一つ注意しなければならないのは、役に立つ相手は誰でもいいというわけではないということ。
役に立つ人を、しっかりと慎重に選ぶということです。
重要なのは「自分が役に立ちたい人の役に立つ」ということです。
そうしなければ、かんたんに「自己犠牲」のほうに傾いてしまいます。
そこで、まずは誰の役に立ちたいのかを考えましょう。
もしも、積極的に役に立ちたい人が思い浮かばないときは、
「まあ、役に立ってあげてもいいかな」
という人たちを思い浮かべてみましょう。
なんだか偉そうな感じがして遠慮してしまうかもしれませんが、生きづらさから脱け出すためだと割り切りましょう。
もしそれでも思い浮かばないときには、消去法で考えていきましょう。
つまり「役に立ちたくない人」をピックアップして、残った人たちのなかから選ぶのです。
もし「役に立ちたくない人」に対して「人類全般」と答えたなら、役に立つのは人間以外でもかまいません。
もしくは、「人類全般のなかで比較的役に立ってあげてもいいかなとほんの少しは思える人」を挙げてみてください。
ここでたいていの人は、
「自分と同じ苦しみを抱えている人になら・・・」
とおっしゃる方が多いです。
私もそうでした。
だから私は「生きづらさを抱えた人たち」のためになにかさせてもらえないかと思いました。
そして「生きづらさ専門カウンセラー」になりました。
その結果、生きづらさを抱えた多くの人の役に立たせていただくことができました。
数えきれないほどの多くの方によろこんでいただくことができました。
本当にありがたいことです。
おかげさまで今も「充実感にヒタヒタに満たされた毎日」を送ることができています。
もちろん幸せですが、それはあくまでも充実感のオマケとしてくっついてきた感じです。
ヒタヒタに満たされるほどの充実感。
それがあれば、他になにもいらないと思えるほどの充実感。
それほどまでの深い充実感を得るためには「役に立つ相手」をしっかりと選ぶことが大切です。
ジニアスエゴイズムを成功させる法則
あなたにお伝えしなければならないことがあります。
私たちは、真に人の役に立つことができたとき、充実を感じます。
勝手に充実してしまうのです。
キレイゴトのようで悔しいけれど、それが事実です。
「生きる意味なんてない!」と悪態をついていた方が、人の役に立つ経験をしたことで「生きていこう!」とすんなりと思えることも珍しくはありません。
それくらい「あっさりした法則」なのです。
だから偽善であってもかまわない。
偽善上等。
偽善ウェルカム。
はじめは偽善だと感じたままでもいいから、人の役に立っていくことが必要なのです。
だって、本当に純粋な偽善だったら「ジニアスエゴイズム」は成立しないのですから。
本当に自分勝手な人助けだったら、迷惑がられてつづけていくことはできないのです。
つまり「自分のために人の役に立つ」ためには、本気で相手のことを思いやるしかない。
本気で相手の役に立たせていただくしかない。
だから、純粋な偽善になんかなりっこないのです。
たしかに、偽善を避けて誰の役にも立たないという選択も一つの生き方。
一理あります。
でも。
少なくともそれでは生きづらさからは脱け出せない。
いつまでたっても充実感は手に入れられません。
だからハッキリとあなたにお伝えします。
もしあなたが生きづらさを抱えているのなら。
自分のために人の役に立ってください。
あなた自身のために人の役に立たせてもらってください。
それが、本当の生きづらさを抱えた人にとって、たった一つの残された道。
「心地よい人生」にたどり着く方法なのです。
ただし押しつけにならないように
ただ、注意が必要なことがあります。
それは、人の役に立つことが「押しつけ」にならないようにすることです。
自分を犠牲しないことも大事ですが、「押しつけ」にならようにすることの方が重要だと言えるでしょう。
先ほども申し上げましたが、生きづらい人の承認欲求はとても強いことが多い。
というより「ハンパない」ことが多いです。
だから、ついつい押しつけてまで人の役に立とうとしてしまう傾向があります。
そのことに心の底から気をつけましょう。
自分を犠牲にするのは自分だけの問題で済みますが、「押しつけ」は他人を巻き込んでしまいます。
それは避けたいところですし、そうなれば「ジニアスエゴイズム」が成立しなくなってしまいます。
だから生きづらい人は、慎重に慎重に人の役に立たせてもらう必要があるのです。
私の主宰するオンラインコミュニティ、
「 Adic Salon」
は、まさにそのために存在しています。
ていねいに確認しながら、比較的安全な環境のなかで、少しずつ人の役に立っていく。
少しずつジニアスエゴイズムを試していく。
そうすることで自己犠牲でもなく「押しつけ」でもない、自分だけのジニアスエゴイズムが完成していくのです。
私たちは「しょぼいしょぼい生きもの」
人は結局、「自分のため」にしか人の役に立てません。
「自分のため」になってはじめて、人の役に立てたことをよろこべる生きものなのです。
その程度の生き物なのです。
私たち人間は、自分にメリットがなければ人の役に立ちつづけられない、しょぼいしょぼい生きものなのです。
得るものがなければ人になにもしてあげられない、それくらいしょぼいしょぼい、しょっぼ~い生きものなのです。
それを認めましょう。
そのうえで、誰の役に立たせてもらうのかを選びましょう。
少しは役に立ってあげてもいい人を選びましょう。
そして、じっさいにその人の役に立たせてもらいましょう。
一歩ずつでいい、進んでみてください。
その先に、ヒタヒタに満たされるほどの深い「充実感」と、オマケの「幸せ」がついてきますから。
だから、最後にもう一度あなたにお伝えします。
自分のために人の役に立とう!
(ただし押しつけにならないように)
Brain with Soul代表
生きづらさ専門カウンセラー
しのぶ かつのり(信夫克紀)
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