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更新日:2020.2.25

「生きづらさ」とはいったいなにか?

 

生きづらさとはいったいなにか?

 
 
今「生きづらさ」を抱えている方が、大きな誤解を受けています。
 
それは「生きづらさ」という言葉が独り歩きしているからではないでしょうか。
 
職場、家庭、医療、心理学、政治、教育、あらゆる場で「生きづらさ」という言葉を耳にするようになりました。
 
しかし、そもそもその「生きづらさ」とはいったいなんなのでしょうか?
 
じっさいに「生きづらさ」という言葉はいろいろな使われ方をしていて、その意味はとらえどころがありません。
 
そのために「生きづらさ」を抱えた方が、あらぬ誤解を受けたり、責められてしまうことが少なくないのです。
 
しかし「生きづらさ」には、じつは共通している一つの「大きな要因」があります。
 
あらゆる「生きづらさ」を貫いている「共通項」があるのです。
 
その「共通項」とはいったいなんなのか?
 
「生きづらさ専門カウンセラー」として日々多くの方の「生きづらさ」と接する機会をいただいている私が、「生きづらさ」をしっかりと読み解き、その「大きな要因」について探求してみたいと思います。
 

「生きづらさ」とはなにか?

 

「生きづらさ」の意味

 
まずはじめに、生きづらさとはいったいなにを指しているのか?
 
つまり「生きづらさ」という言葉のもつ意味から見ていきたいと思います。
 
それは、次のように表現できるでしょう。
 

「生きづらさ」とは、生きていくことが困難であると感じること。

または、そうさせている要因そのものを指す。

同じような言葉である「生きにくさ」とは違い、生きることが「つらい」という感情もそのニュアンスに含まれる。

 
最後の「生きにくさ」との違いについていは、カウンセリングの現場でご相談者様が口々におっしゃられることです。
 
「生きにくいのとは微妙に違んです」と。
 
生きているだけでつらいというニュアンス。
 
生きていく「つらさ」についても「生きづらさ」という語感に含まれている。
 
だから「生きにくさ」ではなく「生きづらさ」という言葉の方がしっくりくるとおっしゃられる方がとても多いのです。
 
この「生きづらさ」という言葉、いったいいつ頃から使われるようになったのでしょうか?
 
「社会的実践や研究の場」で、はじめて取り上げられたのは1981年だとされています。
 

<引用>
では社会的実践や研究の場ではこれらの言葉はいつ頃からどのように用いられてきたのだろうか。雑誌記事索引で調べてみると、「生きづらさ」は1981年の日本精神神経学会総会において「主体的社会関係形成の障害と抑制」として語られたのが最初(後略)


(引用元:藤野友紀「「支援」研究のはじまりにあたって : 生きづらさと障害の起源」『子ども発達臨床研究』2007

 
1981年というと、日本の歴史の長さから考えればかなり新しい言葉と言えますよね。
 
そう考えると日常的にまで使われるようになったのは、本当に「ごくごく最近のこと」だと言えるかもしれません。
 
もちろん、それ以前からも「生きづらさ」を感じ、その言葉を発していた人はたくさんいたはずです。
 
ただ、日本は「努力と根性」のいわゆる精神論が幅をきかせてきた国。
 
その小さな声は、きっとかき消されてきてしまったのでしょう。
 
日本でもメンタルについてケアすることが、ようやく当たり前となってきた昨今、そのかき消されていた声がようやく聞こえてきたのかもしれません。
 
そして、ITの登場などにより生き方が多様化し、その多様性を認めようとしはじめているこの国において、今まで声をあげられなかった人が、その生きづらさを口にしやすい状況になってきた。
 
「生きづらさ」という言葉の使われる機会は、今後ますます増えていくことになるのではないでしょうか。
 
それはまさに「生きづらさが表に出る時代」の到来だと言えるのかもしれません。
 
 

「生きづらさ学」という学問もある

 
そんな日本社会の傾向を受けてか、京都大学では「生きづらさ学」という学問を確立するプロジェクトも立ち上がりました。
 
このプロジェクトは、個々人の問題として語られがちな「生きづらさ」について、なにか共通している点はないかを探り出し、分野を横断して取り扱えるようにしていこうという試みです。
 
その試みをとおして、今までの価値観からの解放と新たな価値観の創造を目指すものです。
 
たしかに、「生きづらさ」とはとても個人的なものですよね。
 
それゆえ、なかなか人と共有することができず、周囲の人からも理解が得られない。
 
結果として「生きづらさ」を抱えた人は精神的に孤立し、また社会的にも孤立する傾向がありました。
 
今まで、このような「生きづらさ」に対処する現場では、各分野にて独自の対応をしていました。
 
医療は医療、教育は教育、労働環境は労働環境として、それぞれ個別に対応していたわけです。
 
また、同じ医療のなかでも、のちに述べさせていただくように、診断名が変われば担当者も変わり対処法も変わらざるをえませんでした。
 
つまり「縦割り」の価値観が定着していたわけです。
 
このような「縦割り」を超えて、あらゆる分野から「生きづらさ」に切り込んでいき、その共通項を見出そうとする。
 
これはまさに「縦割りニッポン」ではなかなか実践することの難しかった、とても柔軟で視野の広いプロジェクトですよね。
 
今後、どのような成果が導きだされるのか、ぜひ期待したいと思います。
 
参考文献
相原征代他「「生きづらさ学」構築にむけた授業実践-関係性をめぐる「生きづらさ」抽出への挑戦」『岐阜大学教育推進・学生支援機構年報 第3号』2017年
「生きやすさ応援実行委員会」京都大学
 
 

二種類の生きづらさ

 
さて次に「生きづらさ」という言葉が、じっさいにどのような「使われ方」をしているのかを見ていきたいと思います。
 
なぜなら「生きづらさ」と一言でいうものの、まったく別のものを指していることがあるからです。
 
「生きづらさ」は、世間において大きく分けて二つの意味で使われているようです。
 
つまり、語る人や場面によって「二種類の生きづらさ」がある。
 
とくに「生きづらさ」について書かれたさまざまな書籍を見ていると、その使われ方の違いがはっきりと見えてきます。
 
そしてこの違いが、生きづらさという言葉の意味を曖昧にし、わかりにくくしてしまっている。
 
さらには、生きづらさを感じている人に対する「誤解」や「責め」を招く要因になっていると私は考えています。
 
そこでこの「二種類の生きづらさ」の違いについて、しっかりと見ていきたいと思います。
 
 

1.自分の「外側」にある生きづらさ

 
まず一つ目の使われ方は、自分の「外側」にある生きづらさです。
 
つまり、生きづらさを感じさせている要因が、生きづらさを感じている人の「外側」にあるということ。
 
この「外側」とは、主に「社会」だと言うことができるでしょう。
 
社会がその人を生きづらくさせている。
 
たとえば、学力主義にかたよった義務教育、デフレ、差別、ハラスメント、福祉制度、労働条件などなど・・・。
 
生きづらさは「社会の側」にあるという使われ方です。
 
内田樹さんの「生きづらさについて考える」(毎日新聞出版)などは、その典型的な使用例だと思います。
 
内田さんはその書籍のなかで、独自の視点で日本社会の問題点を鋭く指摘しています。
 
その内容も「安倍政権と米朝対話」「教育まで株式会社化したこの国の悲劇」など、政治や経済、教育といった幅広い分野におよんでその問題点を解読しています。
 
一方、個人の「内側」の問題は、ほとんど取りざたされることはありません。
 
「生きづらさ」という言葉自体も、本文中には一度出てくるのみとなっています(見落としていたらすみません)。
 
まさに、生きづらさとは自分の「外側」にあるものだと言える使われ方でしょう。
 
また、行政界の著名人による対談が掲載された「生きづらさに立ち向かう」(岩波書店)も、福島みずほさん、前川喜平さん、三浦まりさんが、ひたすら日本の社会についての議論を重ねています。
 
こちらも、「内側」の生きづらさについては、最終章とあとがきにて焦点が当てられているのみとなっています。
 
表紙の袖にも、テーマとして「教育、政治、女性を軸に、三人が変革の可能性について語り合う」とハッキリと書かれています。
 
以上のような使われ方を見ると、「社会の問題点」を「生きづらさ」という言葉に置き換えていると言えるかもしれません。
 
そうすることで、生きづらさを感じている人たちに、
 
「責任はあなたにあるわけではない、社会がよくないだけなのだ」
 
というエールを送ろうとしているように感じられます。
 
 

2.自分の「内側」にある生きづらさ

 
「生きづらさ」という言葉のもう一つの主な使われ方は、自分の「内側」にある生きづらさを指す場合です。
 
つまり、自分自身の体や心が抱える苦痛や苦悩。
 
それが生きていくことを困難にさせているという状態です。
 
「外側」にある生きづらさが「社会の問題点」だとすれば、「内側」にある生きづらさは「個人の問題点」だと言えるでしょう。
 
この、自分の「内側」にある生きづらさは、主に三つの生きづらさが絡み合っている状態だと私は考えています。
 
詳細な説明は拙著「生きづらさの正体」に譲らせていただき、ここでは少しだけその三つの生きづらさについて触れてみたいと思います。
 
一つ目は、「物理的な生きづらさ」です。
 
これは、体に障がいがあったり、慢性のつらい症状を抱えていたり、衣食住が満足に確保できないといった困難です。
 
二つ目は、「心理的な生きづらさ」です。
 
これは、極端にネガティブな思考しかできなかったり、人と会うことすら怖いといった困難です。
 
三つ目は、「実存的な生きづらさ」です。
 
つまり、自分はなぜ生きているのか、人生とはなぜこれほどまでに苦しいのかといった、自分自身の存在に対する根源的な問いに絡めとられている状態です。
 
生きづらさを抱えた方からのご相談をお受けしていると、その方ご自身の「内側」に、この「三つの生きづらさ」が複雑に入り組んでいるさまを日々目の当たりにします。
 
多くの方がこの「内側」の生きづらさに足を取られている。
 
そのためか、「内側」に焦点を当てた生きづらさ関連の書籍は、かなりたくさんあります。
 
そしてその多くは、「三つの生きづらさ」のなかの「心理的な生きづらさ」に焦点を当てているものです。
 
なかには著者ご自身が生きづらさを抱え、その告白とともに、「心理的な生きづらさ」を生み出す要因を示している本も見受けられます。
 
たとえば、安冨歩さんの『あなたが生きづらいのは「自己嫌悪」のせいである。』(大和出版)。
 
そして、妹尾まみさんの『生きづらいあなたには「見捨てられ不安」がある!』(主婦の友社)などは、タイトルにズバリその心理的な要因が書かれています。
 
内容も、安冨さんは大きな賞をもらっても東大の教員になっても自己嫌悪によって安心できないといった苦悩を語っておられます。
 
また、妹尾さんはいつも得体の知れないさびしさを感じてそれから逃れるようにがむしゃらに働いていたという、ご自身の切実な心理にもとづいた持論を展開されています。
 
また、室城隆之さんの「生きづらさを手放す - 自分らしさを取り戻す再決断療法」(春秋社)でも、ご自身の経験にもとづき、生きづらさの要因は自分の心にある「脚本」だとして、それにとらわれずに生きる方法を紹介しています。
 
このように「生きづらさ」という言葉は、主に出版業界においては「心理的な生きづらさ」を指すのが主流となっているように思います。
 
そのため、たんに「悩み」という言葉を「生きづらさ」という言葉に置き換えているだけの使われ方もよく目にするようになりました。
 
これは、生きていくことが困難であるとまでは言えない問題も、「生きづらさ」という言葉で表現されつつあるということでしょう。
 
「生きづらさ」という言葉の指す範囲が、徐々に広がりつつあることを感じます。
 
ただ心配なのは、その傾向のなかで「実存的な生きづらさ」について真正面から取り組んでいる「生きづらさ書籍」はいっこうに増えていかないことです。
 
私の知るかぎり「生きづらさ」を冠した本にかぎって言えば、諸富祥彦さんの「生きづらい時代の幸福論 - 9人の偉大な心理学者の教え」(角川書店)と、たいへん僭越ながら拙著の「生きづらさから脱け出す実践法」(コスモス・ライブラリー)の二冊くらいのようです。
 
しかし、生きづらさに苦しみあえぐ人は、最終的には「実存的な生きづらさ」にたどり着かざるをえません。
 
なぜ生きるのか?
 
なぜこんなにも私が苦しまなければならないのか?
 
そのなかで自分は人生をどう生きていけばいいのか?
 
「生きづらさ」を語るうえで、この領域について真向から取り組む著者さん・出版社さんが増えていくことが求められていると切実に感じます。
 
 

生きづらさは内側と外側の「グルグル運動」

 
自分の「外側」にある生きづらさと、自分の「内側」にある生きづらさ。
 
じつは、この「二種類の生きづらさ」の使われ方が、じっさいに生きづらさを抱えている方への大きな「誤解」を生み出しています。
 
生きづらさを抱えている方が、責められる要因となっているのです。
 
いったいどういうことでしょうか?
 
生きづらさを抱えた人は、その苦しみのあまり、他者にその思いを打ち明けることがあります。
 
「生きづらい・・・」と。
 
すると、たいていは次のような反応が返ってきてしまいます。
 
「甘えるな」
 
これは、「内側」である「意志の弱さ」のせいだということでしょう。
 
または、
 
「社会のせいにするな」
 
これは、自分を棚にあげて「外側」のせいにしようとしているということでしょう。
 
つまり「内側」か「外側」、どちらか一方の問題だとかんたんに考えられてしまうのです。
 
しかし、じっさいのところ、「内側」か「外側」のどちらか一方だけが原因で「生きづらさ」が生じることはまずありえません。
 
これはたいへん重要なことです。
 
生きづらさは「内側」と「外側」の両方の要因が複雑に絡み合って生じるもの。
 
「内側」と「外側」のキャッチボールによって生じるもの。
 
つまり「内側と外側のグルグル運動」によって生じるものだということです。
 
この当たり前の事実が、私たちの住む社会ではほとんど共有されていません。
 
そのため、「生きづらい・・・」と口にすると、
 
「お前よりもっと大変な人がいるんだぞ」
 
と、かんたんにたしなめられてしまうのです。
 
たしかに、論点をわかりやすくするためにどうしても「二種類の生きづらさ」は分けて語られる傾向があります。
 
「生きづらさ」について - 貧困、アイデンティティ、ナショナリズム』(光文社新書)のなかでも、著者のお一人である萱野稔人さんが対談相手の雨宮処凛さんに、
 
「まず人間関係における精神的な「生きづらさ」を取り上げることから始めて、そのあと社会的な「生きづらさ」や労働の問題へと議論を広げていきましょう。」
 
と語りかけるところから対談がスタートします。
 
そうしないと、個々の問題点を浮き彫りにしづらいからでしょう。
 
まず浮き彫りにしてから、問題点同士の「グルグル運動」を見ていく。
 
ただ、その「グルグル運動」の方には目を向けず、個々の問題点しか見ない人もたくさんいるのです。
 
とくに、ご自身が生きづらさを抱えていない人は、この「グルグル運動」にピンとくることがありません。
 
なにか特定の問題を解決すればいいと思ってしまう。
 
その結果、生きづらさを口にする人を見ると、「内側」の問題を解決できない甘えている人、もしくは努力もせずにすべてを「外側」のせいにしているズルい人だと感じてしまうのです。
 
生きづらさとは、そのようなかんたんな問題ではありません。
 
つらい症状、苦しい考え方、好ましくない環境、つまり「体と心と環境」が一体になって追い詰められていく状態です。
 
まるで大きなクモの巣の糸に無数につけられた鈴のように、一つを鳴らせば他の鈴が鳴り、その鈴がまた他の鈴を鳴らし、また最初の鈴も鳴らされる。
 
さらにそのクモ巣がいくつも重なり合って、影響を与え合っている状態。
 
まさに絶え間ない「グルグル運動」なのです。
 
鈴をひとつはずせば済む問題ではない。
 
このことが少しでも多くの方に正確に伝わって欲しいと思います。
 
そうすることで、生きづらさを抱えた方に向けられたあらぬ誤解が、本当にほんの少しずつでも解けいくことを、生きづらさ専門カウンセラーとして願って止みません。
 


さまざまな「生きづらさ」

 

悩んでいる女性の画像

 
「生きづらさ」とはいったいなにか。
 
それを解読するために、次に焦点を当ててみたいのが「名前のある生きづらさ」と「名前のない生きづらさ」です。
 
生きづらさに「名前」なんてあるのかと思われる方もいらっしゃると思います。
 
ただ、「二種類の生きづらさ」でもご紹介したとおり、生きづらさは別の言葉に置き換えられる場合があります。
 
つまり、生きづらさに名前がつけられる場合があるということでしょう。
 
一方、どうしてもその正体を明確には言葉にできない、それゆえ名前をつけることのできない生きづらさを抱えている方も多くおられます。
 
ここにも、じつはかんたんには理解することのできない複雑な違いがひそんでいます。
 
そしてその違いによって、やはり生きづらさを抱えている方が誤解を受けたり、責められることが多いのです。
 
そこでこの章では「名前のある生きづらさ」と「名前のない生きづらさ」について読み解いていきたいと思います。
 
 

名前のある生きづらさ


「名前のある生きづらさ」のなかでも、最近もっともよく耳にするのが「アダルトチルドレンという生きづらさ」と「発達障害という生きづらさ」ではないでしょうか。

生きづらさを冠した書籍のなかでも、この二つを題材にしたものはことのほか多いようです。

また発達障害以外にも、さまざまな「病気」や「障がい」が生きづらさの要因だとする「病名のある生きづらさ」も数多く挙げられています。

うつ病や双極性障害、社会不安障害(SAD)などはその代表的なものと言えるでしょう。

さらに、ハッキリとした名前はないけれども「キーワードをもつ生きづらさ」と呼べるものもあります。

たとえば、リストカット、不登校、引きこもり、自殺未遂といった「切実でヘビーな状況」を表すキーワードの体験をもっているケースです。

いずれもの生きづらさも、切実な困難を抱えているゆえに、「悩み」ではなく「生きづらさ」という言葉でその苦しみが表現されているのでしょう。
 
次に、今ご紹介した四つの「生きづらさ」について、もう少し細かく見ていきたいと思います。
 
 

1.「アダルトチルドレン」という生きづらさ

 
アダルトチルドレンとは、もともとはアルコール依存症の親のいる家庭で育ったことで、大人になってから対人関係で苦しむことになった人たちのことを呼んでいました。
 
それが現在では拡大解釈されて、家庭環境によって心の傷を負い、それが現在の悩みや苦しみにつながっている人のことを指すようになりました。
 
参考文献
「アダルトチルドレン」Wikipedia
 
生きづらさとアダルトチルドレンは、切っても切れない縁。
 
そう言えるほどに、この二つの言葉には強い結びつきがあるように語られることが多いのではないでしょうか。
 
生きづらさ専門カウンセラーである私自身も「 アダルトチルドレンを本気で克服する方法」という連載コラムをもっています。
 
生きづらさ関連書籍のなかにも、梅岡幸子さんの「 生きづらさの正体はアダルトチルドレン」(MBビジネス研究班)というストレートなタイトルの書籍もあるほどです。
 
そのなかで梅岡さんは、
 
「著者自身も、最終的には腕のいいカウンセラーに出会い、アダルトチルドレンの生きづらさが劇的に改善したという経緯があります。」
 
と述べられています。
 
つまり、生きづらさのすべてがアダルトチルドレンからもたらされるということではなく、「アダルトチルドレン特有の生きづらさ」というものがあるということでしょう。
 
その具体的な例として同書籍のなかでは、
 
・人間関係がうまくいかない
 
・相手と親密になると怖くなり、仲良くなってもみずから関係を壊してしまう
 
・言いたいことが言えず「いい人」を演じてしまう
 
・いじめの標的になりやすい
 
・幸せな恋愛ができない
 
・ダメな人ばかりを好きになってしまう
 
・愛されている自信がない
 
・恋人に依存してしまう
 
・完璧主義の呪いに苦しむ
 
・食べ物や買い物・仕事への依存症
 
といった切実な困難が挙げられています。
 
ひとつでも苦しいところを、これだけ多くの苦悩に同時に見舞われれば、「生きづらさ」を感じてしまうのは当然のことですよね。
 
本当に苦しくつらいものです。
 
また、タイトルにアダルトチルドレンと書かれていなくても、読み進めていくとアダルトチルドレンを主な対象としている生きづらさ関連書籍も見受けられます。
 
アダルトチルドレン専門カウンセラーである岩田とよさんの著書『 その「生きづらさ」卒業できます。』(ブイツーソリューション)はまさにそのスタイルで、アダルトチルドレンという「名前」との向き合い方について語っておられます。
 
私がお受けするご相談でも、アダルトチルドレンという言葉を聴かない日はないくらいです。
 
それだけ多くの方が「アダルトチルドレンという生きづらさ」に悩まされているということの表れなのではないでしょうか。
 
 

2.「発達障害」という生きづらさ

 
発達障害とは、体の成長や、学習能力、言語、行動などの発達が遅れている状態のことです。
 
そのため周囲との協調がとれず、社会的に孤立するリスクを負っています。
 
参考文献
「発達障害」Wikipedia
 
発達障害も、アダルトチルドレンに次いで、カウンセリングの現場でご相談者様からよくお聴きする言葉です。
 
生きづらさ関連書籍のなかでも、少し検索しただけで次のようなたくさんのタイトルが表示されます。
 
発達障害、生きづらさを抱える少数派の種族たち」(本田秀夫 著/SBクリエイティブ)
 
大人の発達障害 生きづらさへの理解と対処」(市橋秀夫 監修/講談社)
 
生きづらいと思ったら親子で発達障害でした」( モンズースー 著/メディアファクトリー)
 
アスペルガーの人はなぜ生きづらいのか? 大人の発達障害を考える」 ( 米田衆介 著/こころライブラリー)
 
発達障害は生きづらさをつくりだすのか: 現場からの報告と実践のための提言」(田中康雄 著/金子書房)
 
私たちは生きづらさを抱えている 発達障害じゃない人に伝えたい当事者の本音」(姫野桂/イースト・プレス)
 
また、それ以外の発達障害の関連書籍でも、たとえタイトルに生きづらさという言葉が入っていなくても、帯広告には「生きづらさ」という言葉が入っているものがほとんどです。
 
いかに「発達障害」と「生きづらさ」に、強い結びつきがあるかということがよくわかります。
 
主な症状は次のとおりです。
 
・臨機応変な対人関係やコミュニケーションが苦手である
 
・興味や活動が偏り反復的で融通が利かない
 
・注意が散漫である
 
・落ち着きがなく衝動的な行動をとる
 
・「聞く」「話す」「読む」「書く」「計算」といった能力の一部の取得と使用が困難である
 
参考文献
「発達障害について」メディカルノート
 
これらの症状は、周囲の人たちからどれも非常に理解されにくいものだと言えるでしょう。
 
たんなるワガママミスや怠け、また空気が読めないだけだとして責められやすいものでもあります。
 
そして自分自身もそう感じて、自信をなくしてしまうことが多い症状です。
 
そのために委縮してしまい、ミスを重ね自信をなくしていくという悪循環におちいっていく。
 
このようなご相談を本当によくお受けします。
 
人から責められ、自信をなくしたまま人生を送るという過酷な状況のなかで、生きづらさを感じない人などいないでしょう。
 
「発達障害という生きづらさ」も、決してその症状だけ苦しんでいるわけではない。
 
発達障害という「内側」と、社会という「外側」との「グルグル運動」によって生きづらさが生じている。
 
そこには、当事者にしかわからない切実な困難がつきまとうのです。
 
 

3.「診断名」のある生きづらさ

 
発達障害以外にも、精神科の医師から診断名を受けている人が大勢おられます。
 
その診断名はさまざまです。
 
たとえば、私のところにご相談にこられる方だけでも、次のような診断名を受けている方がおられます。
 
・うつ病
・双極性障害
・適応障害
・パニック障害
・摂食障害
・社会不安障害
・依存症
・神経症
・統合失調症
など
 
それぞれの症状によって、感じている苦しみもさまざまです。
 
ただし、「診断名のある生きづらさ」を抱えている多くの方は、それ自体が生きづらさの原因だとは考えていません。
 
なにか根幹に別の生きづらさがあり、その強いストレスの結果として病気や障がいが起きている。
 
そんなふうに感じておられる方がほとんどなのです。
 
そして、その根底にある生きづらさとしてよく挙げられるのが、先ほど見た「アダルトチルドレン」と「発達障害」です。
 
そのような傾向を受けてか、先ほど挙げたうつ病などの診断名は、生きづらさ関連書籍のタイトルのなかにも見られません。
 
あくまでも二次的に生じてきた生きづらさ。
 
それが「診断名のある生きづらさ」だととらえられているのかもしれません。
 
たとえばうつ病でいえば、次のような症状があります。
 
・気分の落ち込み
・よろこび・興味の減退
・集中力が続かない
・不安を感じてイライラする
・涙もろい
・反応が遅い
・食欲がない
・体がだるい
・疲れやすい
・性欲がない
・頭痛・肩こりがする
・口が渇く
など
 
参考文献
「うつ病について」メディカルノート
 
これだけでもかなりしんどい症状ですが、もし根底に別の生きづらさがあるなら、二重に苦しくなっている状態です。
 
これを「生きづらさ」と言わずしてなんと言えばいいのでしょうか。
 
ただ、診断名を受けたことで「ホッとした」という人がいるのも事実です。
 
今までは、どんなに生きづらくても、ただ自分が弱いだけ、甘えているだけ、だらしないだけなのだと、ひたすら自分を責めつづけてきた。
 
そこに診断名という「名前」がついたことで、「病気だから」「障がいだから」と自分を少し許してあげられるようになるのでしょう。
 
しかし、「診断名のある生きづらさ」だからといって、ハッキリとした解決策が用意されているとはかぎりません。
 
診断がくだったあとでも、やはり生きづらさの困難はつづく場合が多く、「患者」となった人は日々生きづらさと闘いつづけているのです。
 
 

4.「キーワード体験」をもつ生きづらさ

 
名前のある生きづらさのなかには、診断名は受けていないけれども、「キーワード体験をもつ生きづらさ」と呼べるものがあります。
 
たとえば、リストカット、いじめ、不登校、非行、引きこもり、虐待、モラハラ、自殺未遂など。
 
そのキーワードを聞いただけで、「ヘビーな状況」を容易に想像することのできる体験をされているケースです。
 
生きづらさを感じている方が、必ずしも相談機関や医療機関を頼っているとはかぎりません。
 
またのちほど述べさせていただくとおり、自分の生きづらさに名前がつけられることを拒否する方もおられます。
 
そのような方から、みずからの生きづらさの象徴として語られるのが、リストカットや不登校、引きこもりや自殺未遂といった「キーワード」だと言えるでしょう。
 
どのキーワードをとってみても、そこに至った原因や経緯をかんたんには説明することはできません。
 
さまざまな要因があって、結果としてそのような切迫した状況に追い込まれていった。
 
子供の頃の体験であれば、それは有無も言わさず巻き込まれたものだと言えるでしょう。
 
そしてその状況のさなかも苦しみ、その状況あとも苦しみつづけている・・・。
 
たいへん過酷な状況です。
 
そのためか、生きづらさ関連書籍にかぎらず、ネット上でも「キーワード」とともにその深い苦しみを訴える方のブログやSNSの書き込みが数えきれないほどありますよね。
 
本当に切実な問題だと思います。
 
一方、そのようなヘビーな「キーワード」は、それを体験されていない方にとってのプレッシャーになっているという複雑な側面ももっています。
 
どういうことでしょうか?
 
たとえば、生きづらさを抱えたご相談者様からよく聴かれる言葉があります。
 
「私は、本当に生きづらいなんて言っていいのでしょうか・・・」
 
「いじめを受けたことはありますが、不登校をしたこともないですし・・・」
 
「毎日苦しいですが、引きこもった経験もないですし・・・」
 
「生きていたいと思えないのですが、自殺を試したこともないですし・・・」
 
つまり、ハッキリとした「キーワード」をもっていないために、自分の生きづらさを認められずにいるのです。
 
世間でよく目にする「ヘビーな状況」を体験していないということは、自分の苦しみはそれほどでもないのではないかと思っている。
 
ただたんに、自分が甘えているだけなんではないだろうか。
 
そのようなに感じて、自分を責めつづけている方が本当に多いのです。
 
しかし、この場を借りてハッキリとお伝えしたいと思います。
 
「キーワード」をもっていないからと言って、生きづらさを感じていないということには決してなりません。
 
苦しいからといってだれもが不登校のできる環境に育ったわけではありませんし、必ずしも引きこもったり自殺をはかったりするわけでもありません。
 
さらに、ご本人は「いじめ」や「虐待」だと思っていなくても、お話をうかがってみると、ひどい「いじめ」や「虐待」を受けていたと言わざるをえない経験をされている方も大勢おられます。
 
つまり、「キーワード」はあくまでも言葉であり、かんたんにはその人の苦しみのバロメーターにはなりえないのです。
 
また「キーワード」をもっている人のなかにも、診断名を受けている方もおられますし、アダルトチルドレンだと自覚されている方、発達障害の診断を受けているかたもおられます。
 
さらに、それらすべての「名前」をもっている人もいらっしゃいます。
 
そこにはかんたんには区別できない、さまざまな「生きづらさ」がある。
 
そのさまざまな生きづらさが、互いに影響を与えあっている。
 
名前のある生きづらさ同士のなかでも、果てしない「グルグル運動」が起きていて、容易には説明のできない苦しみを生み出しつづけているのです。
 
 

名前のない生きづらさ

 
次に「名前のない生きづらさ」について読み解いていきたいと思います。
 
「名前のない生きづらさ」とは、その言葉の示すとおり、自分の苦しみに名前がつかないこと。
 
まず多いのが「本人にしかわからない苦しみ」というケースです。
 
それは、みずからの「生きづらさ」について、本人ですら言葉にすることがむずかしい状態だと言えるでしょう。
 
そのため周囲の人からも、本人が苦しんでいるのはわかるが、いったいなにに苦しんでいるのかをなかなか理解してもらえないのです。
 
そのような名づけようのない苦しみを、「名前のない生きづらさ」(子どもの風出版会)の著者である野田彩花さんは「名前をつけたそばからズレていってしまう、かげろうのような生きづらさ」と表現されています。
 
手に取れそうで取れない「名づけようのなさ」を、じつに見事に映し出している一文だと思います。
 
また、それ以前に「苦しみを苦しみと認めてもらえない」というケースもあります。
 
つまり、本人がどれだけ苦しいと訴えても、それを「生きづらさ」だと認めてもらえいない状態です。
 
そのために、支援を受けることができず、一人孤独にその生きづらさと格闘しながら生きている方が少なくありません。
 
そのようなケースでは、子供の頃に不登校も許されなかった方が多く見受けられます。
 
つまり周囲の大人たちから、自分の苦しみを「問題」としてあつかってもらえなかったということです。
 
どんなに切実に訴えても苦しいと認めてもらえず、学校に行きたくないと言えば「甘え」と断定されて学校に行かされる。
 
その結果、自分でもその苦しみは「問題」ではなく、ただたんに「自分の弱さ」だと思い込んでしまう。
 
そして、どんなに苦しくても学校に通いつづけることになる。
 
さらに、どんなに苦しくてもそのまま社会に出ざるをえなくなる。
 
しかし、自分のなかに厳然として生きづらさは存在している。
 
結果として、人間関係や仕事で苦しみつづけることとなり、「社会」と「自分自身」の両方から追い詰められていく。
 
つまり「外側と内側のグルグル運動」が常に激しく起きている、とても苦しい状況のなかで生きていくことになる方が多いのです。
 
そこで、このような言葉にすることの難しい「名前のない生きづらさ」を、少しでも理解するためのきっかけとなるように、その詳細を5つに分けて見ていきたいと思います。
 
 

1.「グレーゾーン」の生きづらさ

 
これは、本人の抱える苦しい症状が、診断名がつくほどのレベルではないと判断されている状態です。
 
たしかに苦しい、でも「病気」や「障がい」という基準には達していない。
 
それはあくまでも医療という一分野での判断でしかないのですが、日本ではこの判断がもっとも重要視されています。
 
そのため、グレーゾーンにいる人は支援も受けられず、それどころか甘えている、ワガママ、性格が悪いといった責め苦まで受けるはめになってしまいます。
 
さらに、「病気」や「障がい」ではないのだから当然休むことは許されず、「ふつうに生活すること」が求められます。
 
現在は、とくに発達障害のグレーゾーンがよく取りざたされていますよね。
 
その名もズバリ「発達障害グレーゾーン」(姫野桂 著/扶桑社)という書籍もあるほどです。
 
そこにはじっさいにグレーゾーンにいる方の、
 
「医師から『傾向があります』とだけ言われ、モヤモヤしていた」
 
「普通の人に紛れて必死に働くので、メンタルがボロボロになる」
 
といったリアルな声が掲載されています。
 
まさに「生殺し状態」で生きていく過酷な苦しみです。
 
そのため、なんとかかんとか医師に頼み込んで診断名をつけてもらおうとする人もいます。
 
また、グレーゾーンの生きづらさは、必ずしも「この症状のグレーゾーンだ」とシンプルに割り切れるものばかりではありません。
 
このあとお話しさせていただく「重複」という問題とも密接にかかわってくるのです。
 
 

2.「重複」している生きづらさ

 
「重複している生きづらさ」は、ひとことで言い換えるなら「さまざまな苦しみをもっている」ということになるでしょう。
 
たとえ「病気」や「障がい」の症状に当てはめようとしても、当てはまるものが多すぎるという状態です。
 
つまり「あらゆる分野を横断する生きづらさ」と言い換えてもいいと思います。
 
あらゆる苦しみが混在していて、今までの判断基準では名前をつけられない状態だと言えるでしょう。
 
たとえば医療の分野でも、その問題を取り上げている方がいます。
 
精神科医の香山リカさんは、「生きづらい<私>たち」(講談社)のなかで、生きづらい、むなしい、心の中に穴があいていると訴える人があとを絶たないとしたうえで、次のようにおっしゃっています。
 

<引用>
「境界例」と診断をつけようとしても、その人にはあとの章で述べるような「拒食症」や「心的外傷後ストレス障害(PTSD)」などにもあてはまる症状が現れていて、どちらを第一診断としてよいか、あるいはどちらかの診断をあえてつけることに、果たして意味があるのか、と現場で悩んでしまうことも少なくないのです。

 
つまり、あらゆる苦しみが重複しているなかでは、もはや「診断」という行為自体が意味をなさなくなってしまうということでしょう。
 
また、苦しみが重複するうえに、すべてがグレーゾーンという人もいます。
 
たとえば次のようなケースです。
 
アダルトチルドレンだと自覚していて、医師からは過去に「発達障害の傾向がある」とだけ言われたことがある。
 
また親とは仲が悪いが虐待を受けたとまでは言えないが、小学生の頃にいじめを受けて不登校をしたことがある。
 
そしてなかなか会社になじむことができず休職をくり返し、産業カウンセラーからは適応障害かもしれないから医師に診てもらうことをすすめられる。
 
そこで、精神科に行くと「抑うつ状態」と診断された。
 
このようなケースです。
 
グレーゾーンが多く、キーワード体験もあったりなかったりしていて、多分野にわたり苦しみが複雑に重複している。
 
もはやなにが自分の苦しみなのか自分でもわからずに、途方に暮れてしまう状態です。
 
もちろん、最後の診断のところで「うつ病です」と名前がつくこともあるでしょう。
 
ただその場合も、こんどは名前がついたところだけに焦点があたり、グレーゾーンの苦しみがかすんでしまい、よりケアしてもらえなくなってしまうパターンも多く見受けられます。
 
このようなグレーゾーンの重複問題は、ようやく医療の分野でも取り上げられるようになってきたようです。
 
精神科医の本田秀夫さんが書かれた『発達障害 生きづらさを抱える少数派の「種族」たち』(SBクリエイティブ)では、「グレーゾーンの重複」を主題として扱うという試みがなされています。
 
つまり障害とまで呼べないが、重複しているがゆえに激しく苦しんでいる人に向けた本だと言えるでしょう。
 
そして、この本が大反響なのだそうです。
 
それは、グレーゾーンの重複問題で苦しんでいる方が「ものすごく」多いということだと思いますし、私も日々カウンセリングをさせていただいて、そのことを痛切に感じています。
 
 

3.「心が敏感」という生きづらさ

 
「心が敏感」。
 
一時期、この言葉で書店の心理読み物の棚が埋め尽くされたことがあります。
 
しかし、アダルトチルドレンや発達障害のよう社会に定着する前に、その言葉は少しずつ目にする機会が少なくなってきました。
 
「心が敏感な生きづらさ」とは、雑音や匂い、光がものすごく気になったり、他人の感情にとても反応しやすいという状態のことです。
 
たとえば、エアコンの送風音がするだけで仕事に集中できなくなったり、悲しんでいる人の表情を見ただけで相手の感情が入り込み、涙が出てきて沈みこんでしまったりします。
 
これは、世間では一目見ただけで「甘え」だと言われかねない苦しみです。
 
それゆえ、なかなかこの苦しみを口にできず、一人孤独に心の敏感さを抱えている方が本当に多くおられます。
 
そして自分自身でも、「ただ甘えているだけではないのか」と自分の感性を信じ切れなくなっているのです。
 
生きづらさを抱えている方には、以前挙げたようなリストカットや不登校という「キーワード」をもっている方が多くおられます。
 
また「診断名がつく生きづらさ」においても、精神科入院、閉鎖病棟、オーバードーズというエピソードが語られ、かなり重度の診断がくだったことが示唆されることが多いものですよね。
 
それゆえ、心の敏感さで苦しんでいる方は「このていどで生きづらいなんて言っちゃいけないんじゃないか」と自分の苦しみを自分で認めることができずにいる場合が本当に多いのです。
 
しかし、心の敏感さを抱えながら生きていくということは、並大抵の苦しさではありません。
 
それは「死なない程度の激しい苦しみに見舞われつづけている」ということだからです。
 
現在そのような生きづらさを抱えた方に、「HSP」や「エンパス体質」といった「名前」がつきつつありますが、まだまだ定着しているとはいいがたい状況です。
 
なぜなら、これを容認すると、組織に人を集めて働かせるという労働集約型の日本経済が成り立たなくなってしまうからでしょう。
 
だから、かんたんには社会はこの苦しみを受け入れようとはしません。
 
そのようななか、医師という立場でこのHSPの問題に積極的に取りくんでおられる長沼睦雄さんのような方もおられます。
 
その著書「敏感すぎて生きづらい人の明日からラクになれる本」(永岡書店)などは、一人孤独に敏感さを抱えていた人たちの大きな勇気となったことと思います。
 
 

4.名前を拒否する生きづらさ

 
名前のない生きづらさを抱えていたとしても、社会の都合上、名前がつけられることがあります。
 
苦しんでいる人がいるのであれば、社会としては放ってはおけません。
 
公的な支援の対象となるためには、どうしても名前をつけなければならないときがあるのです。
 
しかし、生きづらさが重複していたり、そもそも言葉で表現できないような生きづらさに名前をつけてしまうと、どうしてもそこにズレが生じてしまいます。
 
そのズレが耐え難いために、その名前を拒否する人がおられるのです。
 
とくに医療の診断名がつくことを嫌う人も多くおられます。
 
それは、自分が心の病気だと認めたくないという差別的な感情ではありません。
 
表現しようのないものの一部分を切り取って、無理やり名前をつけることへの違和感。
 
社会が取りあつかいやすくするために、自分の大切な部分を削り取り切り捨てなければならない違和感が、名づけられることを拒否するのです。
 
前出の野田彩花さんは「名前のない生きづらさ」(子どもの風出版会)のなかで、この「違和感」について次のように述べています。
 

<引用>
ここにきて、ようやく気づいたのだが、私自身の不登校やひきこもりの経験、いまでも働けずにいることは、一方的な名づけに対する違和感の表明なのかもしれない。
(中略)
学校や社会、世間といったものが「めんどうだし、邪魔だから置いていきましょう」と、そぎ落としていくものに、名づけからこぼれ落ちた「名状しがたきもの」たちのほうに、目を奪われる。

 
これは非常に深刻な問題です。
 
でも本人以外の人が理解するにはあまりにむずかしい問題でもあります。
 
さらには、反感を買いやすい問題だと言えるでしょう。
 
その大きな理由の一つに、名前を拒否する人たちの生活環境があります。
 
名前を拒否する生きづらさに苦しんでいる方は、「名前を拒否できる環境」にいる場合が多く見受けられます。
 
たとえば学校に行かないことが可能であったり、働かずとも実家の親もとで暮らすことができるといった環境です。
 
つまり、無理やり社会に出る必要のない環境を得ているケースが多いのです。
 
もちろん、親御さんも必ずしもすべて納得ずくで、経済的にも余裕があるケースばかりではありません。
 
ただ、「不登校」や「引きこもり」という「キーワード」を手にしているため、なんらかの支援を受けやすい状態になっています。
 
そのうえで、名前をつけられることを拒否している。
 
これはすなわち「ただ甘えているだけ」だと、もっとも非難されてしまいやすい立場だと言えるでしょう。
 
つまり、のんびり暮らしていて、社会と自分との「グルグル運動」にまったく苦しんでいないと誤解されてしまうのです。
 
これはとんでもない誤解です。
 
名前をつけられることを拒否せざるをえないということの重みが、どうしても他者に伝わらない。
 
そのなかで苦しまずに生きている人などいないと言っていいでしょう。
 
そして、なんとか社会に出ようと強く葛藤しつづける。
 
それはまさに、社会と自分との「グルグル運動」そのものです。
 
「名前を拒否する生きづらさ」を抱える人は、たとえ一人で家のなかにいたとしても「内側と外側のグルグル運動」を絶えずつづけて苦しんでいる。
 
いっときも気の休まることはない。
 
そのような過酷な生きづらさを抱えているのです。
 
 

5.みずから名づける生きづらさ

 
一方、名前のない生きづらさのなかで、みずから名前をつける人もいます。
 
これは「グレーゾーンの生きづらさ」でご紹介したような、医師に診断名をつけてもらおうとする方たちととは違います。
 
抑えきれない衝動が湧き上がり、自分の苦しみに自分で名前をつける必要に迫られた人たちのことです。
 
その衝動とは、「私のなかにある苦しみはこのようなものである」と解き明かそうとする衝動。
 
自分の人生における激しい葛藤を言葉にせずにはいられない衝動。
 
その苦しみのなかに潜んでいるものを暴き出さずには生きてはいけないという衝動。
 
その衝動のもとに語られる苦しみを表現するうえでの「記号」として、みずから生きづらさに名前をつけるのです。
 
たとえば、心理学者であり心理療法家である諸富祥彦さんの「哲学神経症」。
 
そして、哲学者である中島義道さんの「哲学病」などは、まさに「みずから名づける生きづらさ」だと言えるでしょう。
 
また私自身も、「植物嫌悪症」「わかりにくい不幸」「虐待の後遺症」「嫌われ上手」「両極問題」など、自分自身の抱える生きづらさにみずから名づけをし、公表してきました。
 
諸富祥彦さんは、著書「生きづらい時代の幸福論 - 9人の偉大な心理学者の教え」(角川書店)のなかで、中学から大学の7年間にわたり「哲学神経症」に苦しんだご経験について語っています。
 
まだ14歳という若さで、
 
「真実の生き方とはなにか?」
 
「本当の生き方とはなにか?」
 
「この人生の本当の意味と目的は?」
 
という問いに取りつかれ、死に物狂いでその答えを求めなければならない状況に追い込まれたそうです。
 
そのために、テスト中であっても答案用紙を裏返してその思索の結果を書かなければならなかったというのですから、それがいかに過酷な状況であったかがうかがえます。
 
それ以外にも、極貧の家庭で育ったこと、ボールが落下してくる場所がまったくわからない、教室で一言も発することのできない症状に苦しんだことなども告白されています。
 
このあたりもまさにわかりにくく、かつ重複する生きづらさで、容易には言葉にできない生きづらさだと言えるでしょう。
 
また、中島義道さんは「孤独について - 生きるのが困難な人々へ」(文藝春秋)のなかで「哲学病」の内容を赤裸々に告白されています。
 
子供のころから死ぬことが恐ろしく、「僕は死んでしまう。そして生き返らない。」と呪文のように唱え、青年期以降には、自分がまもなく死ぬという不条理を解決しようとせずにはいられなくなったようです。
 
正確にはこの「哲学病」、哲学者の大森正蔵さんから“診断”されたということですので、ご自身で名づけられたわけではないようです。
 
しかしその表現を採用し、みずから「名乗る」必要に迫られたことはたしかではないでしょうか。
 
それ以外にも東京大学の文科一類に受かるしかないという圧力のもとに育った「東大法学部病」にも苦しんだとのこと。
 
また、肉が食べられない、学校のトイレでおしっこができない、ボールが(心理的な理由で)まっすぐ投げられないという、切実な悩みもつづられています。
 
そのために給食は食べるふりをして口から出し、トイレには行かずひたすらガマンし、人にバレずにおしっこをもらす技術まで体得していたそうです。
 
これらもまさに、世間では名づけようのない生きづらさでしょう。
 
その切実さを、中島さんは次のように語っておられます。
 

<引用>
「私の不幸は、その理由を説明するのが恐ろしく難しいことにあった。私は五体満足で、身体のどの部分も医学的にはまったく健康であった。
(中略)
だから、だれも相手にしてくれなかったのだ。私の悩みは矮小で、些細で、暗く、陰気なものである。だから、だれも真剣に取りあげてくれなかったのだ。」

 
やがてお二人とも、これらの苦しみの体験を言葉にしなければ生きてはいけないという衝動にとらわれるようになっていかれたようです。
 
諸富さんは、大学院生時代にご自身のその苦悩体験を分析した博士論文を書かれました。
 
その量は、なんと原稿用紙7,000枚。
 
いかにその衝動がすさまじいものであったかがうかがえます。
 
今ではその内容の重要な部分を、一般的な読者向けに「哲学探究における自己変容の八段階」(コスモス・ライブリー)としてまとめておられます。
 
それを読むと、言葉をとおしてその衝動の迫力がヒシヒシと伝わってきます。
 
もちろん私にも、言葉にせずにはいられない切実な衝動がありました。
 
というより、文字どおりまさに日々それに衝き動かされていると言っていいでしょう。
 
だからこのコラムを書いているのだと思います。
 
生きるために書く。
 
書かずには死ねない。
 
そうせずにはいられない「人種」のものたちが、生きづらさにみずから名前をつけていく。
 
生きるために「名づける」のではないでしょうか。
 
 

生きづらさに名前をつける意味

 
以上、「名前のある生きづらさ」と「名前のない生きづらさ」について考察させていただきました。
 
もちろん、そこにはハッキリとした境界線はありません。
 
そして、名乗るかどうかも生きづらさを感じているご本人の自由だと思います。
 
だから、重要なのは「なんのために名乗るのか?」ということなのではないでしょうか。
 
名前が重要なのではなく、名前をつける意味が重要だということ。
 
つまり、名前をつけることによって、その名前が「生きづらさから脱け出すチカラ」となりうるかどうかということです。
 
カウンセラーとして日々ご相談をお受けしていると、たとえば、次のようなご質問をいただくことがよくあります。
 
「私はアダルトチルドレンなのでしょうか?」
 
つまり、ご自分の生きづらさに名前があるのだろうかというご質問です。
 
心理カウンセラーであれば、このご質問を受けたことがない方はいないでしょう。
 
もちろん、アダルトチルドレンは病名ではありませんし、アダルトチルドレンかどうかを決める権利もカウンセラーにはありません。
 
ですので私は必ず「ご自分で決めていいと思いますよ」とお答えしています。
 
ただ、そのあと必ず次のようにお聴きするようにしています。
 
「名前をつけたら、楽になれそうですか?」と。
 
なぜなら、名前がつくことによって、楽になるどころか、反対にその名前にとらわれてドロ沼にハマってしまう人がとても多いからです。
 
「私はアダルトチルドレンだから・・・」
 
「私は発達障害だから・・・」
 
「私はパニック障害だから・・・」
 
「私は不登校だから・・・」
 
「私は引きこもりだから・・・」
 
そんなふうに、あらゆることを「名前」に結びつけて考えるクセがついてしまう。
 
そして、すべてを家庭環境や自分の気質、過去の体験のせいにして生きるしかなくなってしまうケースがあるのです。
 
わざわざ名前をつけたのに、その名前に苦しめられてしまうのではつけた意味がありません。
 
だから私は必ずこう述べさせていただいています。
 
「名前をつけるなら、生きづらさをチカラに変えるためです」と。
 
生きづらさに名前をつけることは、自分の現状をいったん受け入れ、冷静に状況を見極めるため。
 
そして、その生きづらさを抱えて生き抜いてきた自分の「強さ」を知るためです。
 
その名前が自分の「強さの証明」になる。
 
「生きづらさ」こそが、自分の「強さの証明」になるのです。
 
そのためになら、名前をつけてもいいと思いますよとお伝えするようにしています。
 
また、名前をつけることで現実的に受けられる支援もありますよね。
 
自分を休ませてあげることもできるでしょう。
 
仲間を集うこともできますし、情報を発信することもできるでしょう。
 
適した仕事を選びなおすこともできるかもしれません。
 
その名前が診断名であれば、飲める薬も出てきます。
 
名前を上手に活用できるなら、人生の選択肢は増えるかもしれないということです。
 
反対に、自分の人生の足を引っ張るよう名前なら、つける必要はこれっぽっちもありません。
 
また、妥協するくらいなら名前なんて必要ないと思う人もいるでしょう。
 
だから、名前の有る無しが問題なのではない。
 
自分の生きづらさは名前を必要としているのか?
 
なんのために生きづらさに名前をつけるのか?
 
重要なのは、その「目的」だということ。
 
私はそう考えています。
 
参照記事
・「 強さの証明
・「 あなたは強いという事実
 
 

生きづらさに共通する「最大の要因」

 

どちらにするか迷う女性の写真

生きづらさの奥にひそむ「両極問題」

 
ここまで、さまざまな意味で語られる「生きづらさ」について見てきました。
 
では、この「生きづらさ」をもたらす要因とはいったいなんなのでしょうか?
 
「苦しい」「つらい」ではおさまらず、「生きづらい」とまで言わせる要因。
 
さらに、多様な意味で語られる「生きづらさ」において、共通の要因というものはあるのでしょうか?
 
私は、「生きづらさ」には共通の要因があると考えています。
 
つまり、あらゆる生きづらさを貫く「横軸」です。
 
ここで私のコラムや著書の読者様でしたら「脳の扁桃体が敏感であること」を思い浮かべる方が多いかもしれません。
 
しかし、「生きづらい原因は脳の扁桃体?」で解説させていただきましたとおり、たとえ扁桃体が丈夫であっても、それを上回るストレスに見舞われればやはり生きづらくなってしまうでしょう。
 
では、「生きづらさ」に共通の要因とはいったいなんでしょうか?
 
「生きづらさ」を「生きづらさ」たらしめている要因。
 
あらゆるすべての「生きづらさ」を貫通して存在している共通の要因です。
 
それは私が、生きづらさを抱えた多くの方々をカウンセリングさせていただいたなかで確信していったたことです。
 
それは、「生きづらさ」の奥には必ず「両極問題」がひそんでいるということ。
 
この「両極問題」こそが、生きづらさ最大にして共通の要因だと私は考えています。
 
「両極問題」の「極」とは、たんなる特徴というレベルを越えた、その人のもつ強烈な性質のこと。
 
つまり「両極」とは、正反対の極端な性質のことです。
 
生きづらさを抱えている人は、絶えずこの「両極」によって引き裂かれそうになっている。
 
「両極」のはざまで、恐ろしいまでの激しい葛藤に見舞われつづけているのです。
 
では、その「両極」とは具体的にいったいどのようなものでしょうか?
 
その具体例はすでに「向かい風を追い風にする生き方」で詳しく書かせていただいておりますので、今回はそちらから引用してみたいと思います。
 
・驚くほど積極的なのに、驚くほど傷つきやすい。
 
・驚くほどささいなことで激怒するのに、驚くほど恐怖心が強くて怒りを表現できない。
 
驚くほど散らかっていると気分が悪くなるのに、驚くほど整理整頓が苦手。
 
驚くほどミスをすると落ち込むのに、驚くほど慎重さに欠ける。
 
・驚くほど称賛を求めるのに、驚くほど面倒くさがりで結果が出せない。
 
驚くほど職場で活躍したいのに、驚くほ人と接することがど怖い。
 
・驚くほど性欲が強いのに、驚くほど異性が怖くて声をかけられない。
 
驚くほど人間関係を築くのが苦手なのに、驚くほどいつもリーダーを買って出て人気者になろうとする。
 
・驚くほどせっかちなのに、驚くほどこだわりが強くて作業がいっこうに進まない。
 
・驚くほど向上心が強いのに、驚くほど自尊心がしおれていてやる気がつづかない…
 
いかがでしょうか。
 
片方の「極」だけでも苦しいのに、さらにそれを真逆に引っ張ろうとする「極」がある。
 
どれも経験した人にしかわからない激しい葛藤、猛烈な苦悩ではないでしょうか。
 
しかも、生きづらさを抱えている方は、これらの「両極問題」をいくつもいくつも抱えている方がほとんどです。
 
今挙げさせていただいた「両極」の事例をコラムでお読みになった方が、「すべて私を見て書いたのかと思いました」とおっしゃることも珍しくありません。
 
また他にも、自分のなかの「両極」だけではなく、自分と「社会」との間で成立している「両極」というものもあります。
 
たとえば「驚くほど歩くことが困難」なのに「驚くほど段差の多い社会」という問題は、その代表的なものでしょう。
 
また、そのような生きづらさを抱えている人にも、メディアは「驚くほど外に出ると楽しいことがある」と宣伝し、「両極」の種類を遠慮なく増やしてくる社会でもあります。
 
感性の面で言えば、私の「植物嫌悪症」などは、まさに自分と「社会」とのあいだに成立している「両極」だと言えるでしょう。
 
社会にとって植物は癒されるもの。
 
癒しの最高峰と言ってもいいでしょう。
 
しかし、私はこの植物というものが気味が悪くてしかたがなく、直視することもできません。
 
つくりものはもちろんのこと、「植物柄」ですら触れることが困難です。
 
これはまさに、「驚くほど植物が気味が悪いという感性」と「驚くほど植物に癒される社会」という、自分と社会とのあいだの「両極問題」です。
 
また「驚くほど勉強が嫌い」なのに「驚くほど義務教育が徹底している社会」に生まれてしまったという人もいるでしょう。
 
そして「驚くほど時間が守れず整理整頓ができない」のに「驚くほど厳格に時間や整理整頓を求められる社会」で生きているという苦悩を抱えている人もいるでしょう。
 
いずれにせよ、生きづらさを抱える方たちの奥底には、この「両極問題」がいくつも絡み合いながらドッシリと居座っている。
 
そのため、常にあらゆる「両極」に葛藤しつづけ、それらをコントロールするだけで疲れ切っている。
 
「両極」に引き裂かれないように必死に耐え続けている。
 
まさに生きているだけで苦しい状態。
 
生きづらさ、つまり「生きることがつらい」ということは、まさにそういうことなのです。
 
 


生きづらさの具体的な解決策

 
気づきを得た女性の写真

 
では、そのような過酷な「両極」を抱えている「生きづらさ」に、どのような解決策が望めるのでしょうか?
 
ここで、生きづらさの具体的な解決策について見ていきたいと思います。
 

「生きづらさの処方箋」はあるのか?

 
医療用語には「処方箋」という言葉がありますよね。
 
医師から渡される、薬の種類や服用方法が書かれた書面です。
 
生きづらさ関連書籍のなかには、じつは生きづらさの「処方箋」と冠したものが二冊あります。
 
小山真紀さんらが書かれた「生きづらさへの処方箋」(ナカニシヤ出版)。
 
そして西きょうじさんの「さよなら自己責任 - 生きづらさの処方箋」(新潮新書)です。
 
小山さんらの「生きづらさへの処方箋」では、精神医学、法哲学、社会学などさまざまな学問領域の専門家が、具体的な事例をもとに、それぞれの解決方法を提示しています。
 
そのなかで著者のおひとりである相原征代さんは、「生きづらさ」の原因が「他者との関係性」にあることが見落とされていることが多いと述べています。
 
そのため、あらゆる生きづらさのなかに「他社との関係性」があることに気づくだけでも、生きづらさの軽減につながるかもしれないという的確な指摘をされています。
 
西さんの「さよなら自己責任 - 生きづらさの処方箋」は、「そもそも成功は努力の結果なのか?」「そもそもマトモな人ばかりの世の中は素晴らしいのか?」と、世間で常識とされていることに疑問をなげかけます。
 
そして「そもそも人は能動的でありうるのか?」と問いかけ、能動と受動の他に「中動態」という古代の言語に存在していたあり方を紹介しています。
 
つまり、世界は「自分の責任」と「自分以外のものの責任」にハッキリと分けられる状態なのだろうかという問いかけです。
 
そのうえで、
 

<引用>
人は自由意志によって行動すべきであり、したがってその行為の責任は行為者にある、というのはある特定の社会のあり方を維持するための抑圧的なストーリーであり、現実にはその枠組みにおさまらないケースも多い。自由意志という考え方からったん離れてみて、主体性への固執からも解放されて、中動態的な見方を受け入れる場合も多々あるだろう。

 
と、すべてを自己責任として考えることを手放す姿勢を示しています。
 
また「書くという行為」が自分を癒していくのを体感し、言語化するという行為自体によって癒され、話すことが生きづらさの処方箋になると確信したとも述べておられます。
 
一方、精神科医の香山リカさんは、前出の著書「生きづらい<私>たち - 心の穴があいている」のなかで、生きづらさへの処方箋が書けずにいることを告白されています。
 

<引用>
自分の内面の問題に強くとらわれ、怒り、悲しみ、さびしさ、むなしさといった感情に振り回されながら“生きづらさ”を抱えて生きる若者たちは増える一方で、私は彼らの気持ちを想像できるようになったものの、「こうすればそこから抜け出せる」といった“処方箋”を書けずにいます。

 
立場によって「生きづらさの処方箋」への考え方は、それぞれ違っている。
 
「生きづらさ」に共通する解決策を示すことは、かんたんではないことを痛感します。
 
 

生きづらさの現実的かつ着実な解決策とは?

 
そのようななかで、私自身は生きづらさ専門カウンセラーとして、どのような「生きづらさ」への解決策をお示しできるのか?
 
たいへん難しい問題ですが、次に、そのことについてお話しをさせていただければと思います。
 
先ほど、生きづらさの根底には「両極問題」があることを見てきました。
 
ですので、生きづらさの解決には、この「両極」に対処していくことが必然的に求められることになります。
 
「両極問題」の解決のアドバイスでよく見られるのが、「両極」を消してしまおう、または片方の極だけでも無くしてしまおうという呼びかけです。
 
その呼びかけはいろいろな言葉で語られますが、集約すると主に次の四つになるようです。
 
・好きなこと、やりたいことを見つけよう
 
・なんでもポジティブにとらえよう
 
・ダメな自分を受け入れてしまえばいい
 
・自分らしく生きればいい
 
たしかにこのような方法は、悩みを抱えて生きる一定の人に一定の効果があるでしょう。
 
決して間違っているわけではないと私も思います。
 
しかし「生きづらさ」とまで言われる深く重たい苦しみを抱えている人においては、ほとんど効果がないと、現場で対応する人間としては言わざるをえません。
 
それどころか、「好きなこと探しの迷宮」にはまり込む人、無理にポジティブに考えよう、ダメな自分を受け入れようとして苦しくなる人、永遠の自分探しをつづけてしまう人がほとんどです。
 
つまり、今ある苦しみに、さらに余分な苦しみを背負い込むはめにおちってしまう人が少なくないのです。
 
とくに「好きなこと、やりことを見つけよう」という取り組みついては、30代後半以降の方であれば、もうすでにそれを探しに探しつづけて見つからなかった方ばかりです。
 
そもそも「生きているだけで苦しい」と言える毎日のなかで、この世界が真っ暗闇に見えています。
 
「好き」や「やりたい」という感情をもつ余裕もない方が多いのです。
 
ご自身も人間関係に苦しみ引きこもりを経験したユーチューバーのベルさんは、「生きづらさを抱えるきみへ」(ベストセラーズ)のなかで、生きづらさを抱えている若者に向けて次のようにアドバイスなさっています。
 

<引用>
“好き”や“やりたい”が見つからなくても、「苦じゃないことで生きていく」ことも大切な視点だと思います。なんとなく続いていること、苦じゃないことを掛け合わせてみてください。

 
ご経験者ゆえの現実的な考え方だと思います。
 
そして私は、中年期以降で生きづらさを抱えておられる方には、「苦じゃないことで生きていく」よりさらにハードルの低い「まだマシなことを選ぶ」ことをすすめています。
 
生きづらさを抱えたまま中年期に突入すると、もうすべてが苦だと感じてしまっている人も多いからです。
 
また、学生で生きづらさを抱えている人には、
 
「逃げていいんだよ」
 
「いざとなったら学校なんて行かなくていい」
 
「学校だけがすべてじゃないんだよ」
 
というアドバイスがされているのをよく目にします。
 
とても優しい声がけですよね。
 
少なくとも私が子供の頃には、そんなことを言ってくれる大人は周囲に誰もいなかったように思います。
 
しかし、少年少女や学生という、生活力もなく選択肢がいちじるしく限られた人たちにこのような言葉をかけても、なかなか実現できないかもしれません。
 
「周囲の大人に相談してごらん」とも言われますが、先述したとおり、誰もが不登校という道を許される親や先生のもとで暮らしているわけではりません。
 
いじめられた経験をもつ漫画家のつのだふむさんは、前掲書のなかで、
 

<引用>
「『逃げていいんだよ』とか、『弱くていいんだよ』というセリフは、中学時代の僕には効かなかったんです」

「いまこの瞬間が嫌なだけ。『よし、もっと生きよう』とは1ミリも思いません」

 
と述べておられます。
 
それが現実ではないでしょうか。
 
そしてその感覚は、生きづらさを抱えているかぎり大人であっても変わることはないでしょう。
 
今この瞬間がつらい、苦しい。
 
だからそれをなんとかしたい。
 
でも、そこだけに対処していても、根本的な解決にはなりません。
 
だから生きづらさの解決策として有効なのは、「今目の前の苦しみに対処すること」と「根本的な苦しみに対処すること」の両面からハサミ打ちにするということです。
 
「今目の前の苦しみ」だけに対処していたら、イタチゴッコのまま延々と生きづらさから脱け出すことができません。
 
かといって「根本的な問題」にじっくり腰をすえて取り組みつづけるには、今目の前にある苦しみが大きすぎる。
 
だから「今目の前の苦しみ」と「根本的な苦しみ」に同時に対処するのです。
 
そのときに重要になるのが「両極を包み込んで成熟させる」という考え方です。
 
先に述べさせていただいたように、生きづらさの解決策を求めるとき、どうしても「両極」を消そうとしてしまいます。
 
これは苦しんでいる人自身もアドバイスする側も、どちらもおちいってしまう傾向があります。
 
しかし、その「両極」が消せるのものなのであれば、とっくに消せているはずです。
 
生きづらさを抱えている人は、それだけの努力を長年重ねつづけてきた人がほとんどです。
 
それでも「両極」が消せないから、そんな自分を弱い、だらしないと責めてきた。
 
もっと努力しろと自分をけしかけてきた。
 
だからこそ、身も心もボロボロになってしまったのではないでしょうか。
 
だから、もうその「両極」は消そうとしなくていい。
 
そして、その「両極」をもっているからこそ生きることのできる人生を本気で構想する。
 
その「両極」をもっている人にしか生きられない生き方、それを真剣に見出していくのです。
 
これは決してキレイゴトで言っているわけではありません。
 
理想で語れるほど楽な道ではありません。
 
徹底的に生きづらさの袋小路に追い詰められた人には、「それしか道がない」と申し上げているのです。
 
それはまさに「人生のフルモデルチェンジ」と言えるチャレンジです。
 
ではどうすれば、そのチャレンジが実現できるのでしょうか?
 
私は「三理一体」で取り組むことをおすすめしています。
 
三理とは「体」と「心」と「環境」のこと。
 
「生理」と「心理」と「物理」の三つの理のことです。
 
これを同時に整えていくのです。
 
私たちは苦しみを生み出す「両極」を解消しようとするとき、とかく一つの「理」だけで対処しようとしてしまいがちですよね。
 
たとえば、薬を飲む。
 
たとえば、考え方を変える。
 
たとえば、仕事を変える。
 
どれか一つの「理」だけで解決しようとするのではないでしょうか。
 
しかし一つの「理」を変えたところで、結局はもとの苦しい状態に戻されてしまうことがほとんどです。
 
なぜなら、他の二つの「理」が足を引っ張ってしまうからです。
 
それが「生きづらさ」という切実な問題であれば、その引っ張る力は強大です。
 
そうかんたんに振り払うことはできないでしょう。
 
だから「三理一体」で取り組む。
 
「体」と「心」と「環境」を同時に整えることで、人生をフルモデルチェンジしていく。
 
そうすることで足の引っ張り合いがおさまり、人生の歯車が少しずつ回りはじめていくのです。
 
そしてそこに、両極を解消するのではなく「両極を包み込んで成熟させる生き方」という新しい人生が浮かび上がってくるのです。
 
時間はかかるかもしれない。
 
でも、着実に進んでいくことができる。
 
それが、日々多くの方の生きづらさと向き合わせていただく私がご提案できる、現時点で最善の「生きづらさの解決策」です。
 
  参照記事
向かい風を追い風にする生き方
両極を包み込んで成熟させる
三理一体の法則
 

まとめ

 
「生きづらさとはいったいなにか?」を知るためには、「名前のある生きづらさ」と「名前のない生きづらさ」という視点をもつことが重要だと思います。
 
そして、それはそのまま「生きづらさから脱け出すための視点」をもつことでもあると言えるでしょう。
 
名前にとらわれずに、「生きづらさ」を感じている人の苦しみの根底にある「両極」を見つめてみる。
 
それが「生きづらさ」を理解し、「生きづらさ」の解決策を見出すことにつながっていくのだと私は思います。
 
Brain with Soul代表
生きづらさ専門カウンセラー
しのぶかつのり(信夫克紀)
 


参考文献の一覧
藤野友紀「「支援」研究のはじまりにあたって : 生きづらさと障害の起源」『子ども発達臨床研究』2007
相原征代他「「生きづらさ学」構築にむけた授業実践-関係性をめぐる「生きづらさ」抽出への挑戦」『岐阜大学教育推進・学生支援機構年報 第3号』2017年
「生きやすさ応援実行委員会」京都大学
内田樹「生きづらさについて考える」(毎日新聞出版)
前川喜平他「生きづらさに立ち向かう」(岩波書店)
安冨歩『あなたが生きづらいのは「自己嫌悪」のせいである。』(大和出版)
妹尾まみ『生きづらいあなたには「見捨てられ不安」がある!』(主婦の友社)
室城隆之「生きづらさを手放す - 自分らしさを取り戻す再決断療法」(春秋社)
諸富祥彦「生きづらい時代の幸福論 - 9人の偉大な心理学者の教え」(角川書店)
中村義道「孤独について-生きるのが困難な人々へ」(文藝春秋)
しのぶかつのり「生きづらさから脱け出す実践法」(コスモス・ライブラリー)
萱野稔人他『「生きづらさ」について - 貧困、アイデンティティ、ナショナリズム』』(光文社)
梅岡幸子「生きづらさの正体はアダルトチルドレン」(MBビジネス研究班)
「アダルトチルドレン」Wikipedia
岩田とよ『その「生きづらさ」卒業できます。』(ブイツーソリューション)
「発達障害」Wikipedia
「発達障害について」メディカルノート 
「うつ病について」メディカルノート
野田彩花他「名前のない生きづらさ」(子どもの風出版会)
姫野桂「発達障害グレーゾーン」( 扶桑社)
香山リカ「生きづらい<私>たち」(講談社)
本田秀夫「発達障害、生きづらさを抱える少数派の種族たち」( SBクリエイティブ)
長沼 睦雄「敏感すぎて生きづらい人の明日からラクになれる本」(永岡書店)
諸富祥彦「哲学探究における自己変容の八段階」(コスモス・ライブリー)
小山真紀他「生きづらさへの処方箋」(ナカニシヤ出版)
withnews編集部「生きづらさを抱えるきみへ」(ベストセラーズ)

西きょうじ「さよなら自己責任 - 生きづらさの処方箋」(新潮新書)
 
 
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