超数派という新しい生き方
植物が嫌いという病
第4回
単純明快に答えさせられる
「治そうとされる」という問題の他に、これまた多いのが「単純明快に答える」ことを要求されるという問題です。
「つまり、それってこういうこと?」という質問を連呼され、私の「植物嫌悪症」という「病気」をできるだけかんたんで取り扱いやすい問題としてまとめあげようとされるのです。
たとえば、
「つまり、見るのがダメってこと?」
「つまり、部屋にあるのがダメってこと?」
「つまり、この種類がダメってこと?」
と、なんとか一言でケリをつけようとする。
これも、私の「病気」について理解しようとしてくれるのはたいへんありがたいことなので、むげに拒絶するわけにもいかず、その一つひとつに答えていくのですがとにかくキリがない。
答えてもこたえても質問を浴びせかけられ、そのうちやっと「病気」の抱える複雑性に気がつき、最後には、
「え~、なにそれ~、面倒くさ~い」
「はぁ~、ややこしい~」
とあきれ顔で言われるのです。
じゃあ聞くなよと当たり前のように思うのですが、そう言い返してしまうと、
「せっかく理解してあげようと思ったのにぃ!」
と多数派の論理の剣をシャキ~ンと振りかざされるので、黙って気にしていないふりをして、さらに少し申し訳なさそうな笑顔(このときのために練習している)をつくってやり過ごすことになります。
ああ、それこそ面倒くさい。
これを読んで、
「治そうとしたら治そうとしたで文句をつけ、理解しようとしたら理解しようとしたで文句をつけるとは、なんとわがままなんだ!」
と憤る方もおられるかもしれません。
しかし私に限らず、人の感性というものはもともと「これこれこういうものです」と単純明快には説明できないものではないでしょうか。
たとえば異性を好きになったとき、どこが好きなのと聞かれて、スパッとその理由を一言で答えられることはまれでしょう。
だいたいの場合は、
「優しい笑顔とか、懸命に夢を追いかけている目とか…、でも、たまに落ち込んだ表情を見せるのも好き。」
と、あれやこれやと理由が出てくるものだと思いませんか?
そのようにみずからあげた理由に対して、
「なるほど、つまり顔ね」
とかんたんに言いなおされたら「いや、そんな単純な問題じゃなくて…」と感じるのではないでしょうか。
たしかに「巨乳だから」と一言で答えたり、「好きになった人がタイプだから…」と質問の意味を正確に理解できていない人も見かけはします。
それでも好きな巨乳の形や色やサイズはあるでしょうし、好きになった人がどういうタイプなのかを説明したら、おおむね自分にしかわからない細かい設定によってつくりあげられているものであるということがわかるはずです。
感性というものは植物や異性に限らず誰だって、
「種類によってダメ」
「大きさによってダメ」
「においによってダメ」
とか自分で言語化することも面倒なほど細かい設定の組み合わせによってつくりあげられているのです。
私の「植物嫌悪症」で言えば、まずはじめにもっとも苦手なのはツタや草です。
しかし、すべての草がダメなわけではなくイネ科のものは比較的平気です。
比較的平気だからといってまったく大丈夫なわけではなく、室内にあるのはダメ、そして外にあったとしても直視するのはダメです。
部屋にある植物は、どんなものであってもすべてダメです。
ソファや布団、カーテンや服などの柄もリアルなのはダメ。
たとえリアルではなくても、たくさん散りばめられているもの、色がついているものはダメです。
触ることすらできません。
造花もダメ、場所によっては植木鉢(空っぽ)が置いてあるだけでダメです。
「面倒くさ~い」と思いましたか?
しかしこのあたりの感性のさじ加減は、過去の経験上、「虫」と「カビ」でたとえると、じつは誰もがもち合わせているものだとわかってもらいやすいので、その二つでたとえてみましょう。
たとえば「虫」であれば、チョウチョは飛んでいてもかわいいと思うけど、セミは飛んでいたら気もち悪いとか、
そのチョウチョもあんまり大きくなると気もち悪いとか、
チョウチョではなくじつは蛾だと気づいた瞬間に悲鳴をあげるとか、
いなごの佃煮は食べられるけどカミキリの佃煮は絶対無理とか、
「カビ」でたとえるなら、カビがお風呂の目地にあるくらいなら耐えられるけど、浴槽に生えていたらダメとか、
壁の全面に広がっていたら入れないとか、
カビが枕に生えていたら絶対眠れないし、机がカビてるレストランではご飯は食べられないけど、外の道路がカビていてもまったく気にせず歩けるとか…、
ゼエゼエ…。
とにかく、そのようななんともいえない感性を、一言ふたことでまとめあげて理解しようとするところこそが、多数派のおちいっている「横暴」なのです。
その「横暴」のために、超数派は(頼んでもいないのに)えらい質問攻めを受け、あげくのはてに「面倒くさ~い」と言われてあきられるというたいへん不条理な目にあっているのです。
ただ、たしかに私の「植物嫌悪症」においては、多数派の人々が「面倒くさ~い」と言いたくなるのも理解できる大きな要素があります。
それは、私が「自然」が大好きだということ。
平原や森や林を含む、自然の風景が大好きなのです。
あまりにも好き過ぎて、引っ越すときは必ず近くに大きな公園があるか確認するほどです。
豊かな緑をたたえた森や、青空と湖のあいだに立つ林の稜線、風に吹かれて音を立てる木々や葉などをながめていると、それだけでうっとりしてジワ~ッと涙が出てきます。
それだけにとどまらず、ときおりその森や林に入り、静けさのなかで存分に深呼吸すると、その透明な空気の質感に心を洗われます。
多くの人と同じように、私にとっても「自然」は欠かせない大切なものなのです。
もちろん、森や林に入るときも植物が平気になるわけでもなく、気味が悪くて仕方がない。
気もちいいだけではなく、同時に鳥肌も立っているのです。
視界の上下には私のとくに苦手な植物が多いので、なるべく視界の中間だけを見るようにしたり、遠くを見るようにして神経を使いながら森林浴をします。
それでも余りあるくらい、自然からもらえる恩恵は大きいのです。
つまり、植物は大嫌いだけど自然に身を置くことは好きであり、景色としても好きだということ。
これもとくべつなことではなく、多くの人に当てはまる感性ではないでしょうか?
ホタルだってそうでしょう。
わざわざホタルを見に行くためのツアーもあるくらい、夜のホタル鑑賞は人気がありますよね。
そして、自然の景色のなか、そのフワッと飛ぶ幻想的なホタルの光の群れに感動し癒されるわけです。
でも、そのまったく同じホタルたちが、部屋の中をブンブン飛びまわっていたら、たいていの人は悲鳴をあげるのではないでしょうか。
それよりも前に、自然のなかに入った時点で、足元から木のてっぺんまで、部屋にいたら絶叫とともに叩き殺されるような虫や、怒りとともに洗剤でふき取られるようなカビだらけです。
それでも人は自然を求め、森や林に入っていくのではないでしょうか。
私も同じです。
植物が苦手でも、公園の近くに引っ越してしまうほど自然が大好きなのです。
しかし同時に、その引っ越先のマンションで、隣の住人がベランダでガーデンニングをはじめやしないかと、日々、ビクビクとおびえてもいるのです。
Brain with Soul代表
生きづらさ専門カウンセラー
しのぶ かつのり(信夫克紀)
おかげ様でコラム数500本突破!