超数派という新しい生き方
植物が嫌いという病
第7回
「レアな人生」を手に入れる
私が言いたいことは、こういうことです。
もし私と同じように、超数派であるために、「実害」に直面している人がいるのなら、その感性を持っている人にしか生きられない人生を極めてみてはどうか。
その感性こそが、自分を自分として成り立たせている核であり、その核をもつものならではの人生を送ってみてはどうか。
その核をもつ者として、この社会で生き抜いてみることをキッパリとみずから選び取ってみてはどうか。
自分の感性を人に理解させようとするのではなく、またその感性をもって生きるたいへんさを社会に認めさせようとするのでもなく、さらにその感性をみずから捨てたり圧殺しようとするのでもなく、周囲と対立してでもあえてその感性と強く手を携えて生きていくという「チャレンジ」に身を投じてみる。
その「覚悟」をしてみてはどうか。
そう提案してみたいのです。
それは、超数派という生き方をみずからら選び取るということ。
そうすることで、目の前の景色が変わって見えてきます。
今までその感性のせいで「できない」と思っていたことが、じつはその大半が「やる必要のないことであった」ということに気がついていきます。
そして、今まで真っ向から衝突してしまいがちだった多数派の人たちが気にならなくなっていき、「実害」が人生に深みを与える貴重な財産であると感じられてきます。
さらに、人間関係が厳選されていき、自分にとって本当に必要な人というものがわかっていきます。
その結果、超数派という生き方を選んだ人にもたらされる、「これぞ自分の人生だ」という強いつよい納得の感覚を得ることができます。
そして、自分のもつ超数派的感性がもたらしてくれる、たった一つの「レアな人生」を手に入れることができるのです。
もちろん、どんな生き方をしても、どんなに平凡と思える人生を送っても、それぞれの人にしか得られないたった一つの人生です。
しかし、当人にしか理解できないような微妙な感性のさじ加減を自覚し、それを味わい尽くして生きる人生は、他の誰の人生とも「明確に」違う、
その一瞬一瞬がとても貴重で豊かな体験の連続だと強く感じることのできる「レアな人生」となるのです。
ただしそれは、自分の超数派的な感性を全面に押し出して、やりたいようにやればいいということとはまったく違います。
もしその感性が、殺人や傷害、窃盗といった反社会的な衝動と深く結びつく感性であれば、あっという間に社会から葬り去られてしまうでしょう。
「レアな人生」とは、あくまでも社会と相容れない自分の超数派的感性をもちながら、どう社会のなかで生き抜き、みずからに充実感と納得をもたらすような豊かで味わい深い人生を手に入れられるか。
その「挑戦」にみずから飛び込むということ。
多数派の人たちに期待するのではなく、自分の感性に期待するのです。
私は、植物がこの世から無くなればいいとも思わないし、人々が植物を愛し増やそうとするのをやめて欲しいと言うつもりもまったくありません。
ただひたすらに、この感性をもっている自分にしか送れない人生を思う存分味わってみよう。
そう思っているだけなのです。
Brain with Soul代表
生きづらさ専門カウンセラー
しのぶかつのり(信夫克紀)
おかげ様でコラム数500本突破!