超数派という新しい生き方
植物が嫌いという病
第8回
超数派の定義
ここからは、超数派の身にじっさいに起る「実害」のくわしい例をあげ、その例をとおしてどのように「レアな人生」を育んでいけばいいのかを提案していきたいと思います。
そのサンプルとして、「植物嫌悪症」である私自身の日常について紹介していきます。
その前に、ここでいったん今まで使用してきた多数派、少数派、超数派という言葉についてその定義をあらためて見ておきたいと思います。
ここで定義する内容は、あくまでも当コラム内で使用するためのものであって、世間一般で使用されている意味とは相違があることをあらかじめご理解いただけましたら幸いです。
<多数派>
事実として、多くの人が共有し共感する感性を持っている人。
また、数えられることはなくても、社会のなかでそう感じることが疑いようもなく「当たり前」と認知されている感性をもっている人。
たとえば日本国内においては、
・主食は米である
・元気で長生きが一番である
・家族は大切にするものである
・人は助け合った方がいい
・犬と猫は人間のかわいいパートナーである
・植物は癒されるものである
など。
<少数派>
事実として、少数の人しか共有せず共感できない感性をもっている人。
そしてそれらの感性に、
「○○病」
「○○症」
「○○好き」
「○○嫌い」
「○○オタク」
「○○マニア」
などの名前がつけられており、社会や団体から認知されている人。
その感性をもつ人が、もし世界中にたった一人しかいなくても、社会的に認められているのなら少数派となります。
<超数派>
その感性が独特なため、その存在を想定されていない人。
そのため、その感性に名前がつけられておらず、数えられることすらなく、社会や団体から認知されていない人。
以上です。
ご覧いただいたとおり、「多数派」と「少数派」はじっさいに数えられたり疑いようのない状況により、多いのか少ないのかという人数によって決まります。
そして、そのどちらもが社会や団体などから認知をされています。
それに対して「超数派」は、多いのか少ないのかすらわからず、社会において存在していないことになっている。
つまり、数える以前の「人数を超えた存在」であるということです。
そう考えると、もしかしたら独特だと思っていた自分の感性を表明してみたところ、社会のなかで多数派になる可能性もあります。
たとえば、
「僕は右足のつま先をグーにしながらでないと指輪が買えないんだ…」
と表明したところ、
「私も!」「じつは僕も!」
と、世界中のほとんどの人がそうであったということがわかるかもしれません。
それでも、じっさいにそのときがくるまでは、その人たちは多数派ではなく超数派なのです。
その超数派の中でも、このコラムではその感性が「社会に密着して」おり「多数派の感性と正反対」であるがゆえに、日々「実害」に直面している人を主な対象としていきます。
そして、超数派という生き方をみずから選び取ることを提案し、それによって手に入れることのできる、かけがえのない「レアな人生」についてご紹介していきます。
ではいよいよ、超数派としての生き方について、それをよりきわ立たせるために、私の日常の「実害」に焦点を当てながら「レアな人生」の意義とその味わい深さとはいったいどのようなものなのかを見ていきたいと思います。
まず焦点を当てるのは、「言ってるそばから…」という問題です。
Brain with Soul代表
生きづらさ専門カウンセラー
しのぶ かつのり(信夫克紀)
おかげ様でコラム数500本突破!