超数派という新しい生き方
植物が嫌いという病
第11回
自分を「深化」させる
私は前回、さもすみやかに双方を受容する結果を導き出し、それを実行したかのように自身の体験を表現しました。
ただ、お察しのとおり、もちろん私も毎回すんなりと双方を受容する理想的な思考や行動がとれるわけではありません。
葛藤しながらいかんともしがたく、その場で我慢しつづけることもありますし、ついついイライラしてそれが態度に表れてしまうこともあります。
十回に一回でも納得いく対応方法が見つかり、実行できればいい方です。
重要なのは、理想的な結果ではありません。
激しい葛藤という「プロセス」を経ること。
つまり、十分な葛藤もせず、自分か相手のどちらか一方に責任を押しつけて、自分をだまし、感情をしずめてしまうのではなく、双方を活かすことのできる対応策がないかをどこまでも問い求める。
求めつづける。
そのプロセスのなかでこそ「レアな人生」を存分に味わうための「力」が養われていくのです。
その力とは、私たち人間を「深化」させる力。
常に双方を受容することで、新たな答えを見出そうとし、その答えを実行していくという、人生を深くふかく濃密に生きられるようにする力です。
その「深化力」とも言える力を育て磨き上げていき、じっさいに人生を深く生き抜く。
そして、新しい自分を切り拓いていく。
自分を拡大していく。
それこそが超数派として生きるということに他なりません。
あっさりさっぱりと楽しく順調に生きる人生を目指すことももちろん悪くはないでしょう。
私もそれを否定するつもりはまったくありません。
しかし、せっかく超数派としての自分の感性に気づくことができたのなら、深く濃く、悩ましくとも充実した人生、そんな「のど越しのある人生」を送りたい。
私はそう思っています。
そのためには、「深化力」を常に鍛え上げていく必要があります。
そこで次は私の植物嫌悪症にまつわる「楽しそうにされる」という「実害」に遭遇した場面を例にとって、その「深化力」の鍛え方について一緒に見ていきたいと思います。
たとえば、私がそれなりに親しくなった友人知人に食事や旅行に誘われるとします。
そんなとき、
「植物を見ることができないほど嫌いなので」
とあらかじめ話しをすると、
「それは面白い!」
とばかりにそれはもう本当に満面の笑顔で「ヘイヘイ!」とハイタッチを求められそうな勢いで「楽しそう」に対応されることがあります。
そこで私も「ヘイヘイ!」とハイタッチするほどのアメリカンスピリットはもち合わせていないので、淡々と食事や旅行に行くために必要な対応について述べるのですが、相手のハイテンションは下がる気配を見せず、興味津々の顔で私を見つづけます。
正直に言って、まあ少なくともいい気分にはなれません。
また、体調不良で医師の診察を受けているさいにストレスについてたずねられると、植物嫌悪症で日常的にストレスがかかっていることを告げることがあります。
そのときも「へー!」と満面の笑顔で「楽しそう」に対応されることが結構あります。
私も「医師という大変なお仕事の憂さ晴らしになれば!」との気づかいから話しているわけではないので、楽しんでいただく必要はまったくなく、これもあまりよい感情は生まれてきません。
もちろん、まずはこのような不快な気分に飲まれないように相手への感謝の気もちを思い起こしたり、旅行や食事、治療という目的に焦点を当てて気にしないように努力することは重要でしょう。
さらに、そもそもこのような気分にならないように、自分の感性に対してふだんから相手に期待しすぎないよう自分の心を強く戒めておくことも必要であることは言うまでもありません。
しかし、自分にとってとても不愉快で面倒なことについて話しているのにかわりはありません。
それを聞いた相手が笑うだけでも対応に苦慮するところを、明確に「楽しそう」にしているとなると、交通事故にあったことを面と向かってをよろこばれたような気分にもなります。
さすがに、旅行でも食事でも、治療でも、これからなにかを一緒にやろうという気が失せていってしまいます。
ということでストレートに、
「こっちは真剣なんです、バシッ!(机などを叩いてアピール)」
と不愉快さを相手にぶつけるほど私もウブではありません。
また、
「お気もちはわかりますが、大変不愉快なのでやめていただけますか?」
と丁寧にアサーション(自己主張)したとしても、こちらが社会と相反する感性をもって苦労していることを相手に理解させるだけの対応になってしまう。
これらの対応では相手を一方的に「悪い」と決めつけて、あっさりさっぱりと終わってしまうような気がします。
反対に、
「僕がこんな感性をもっているのが悪いんだよな。もうこんな自分やめてしまいたい。」
と自分を「悪い」と決めつけて、無理やり納得しようとするのも、あまりにも創意工夫のない姿勢だと感じます。
そこで、大人の解決策として、
「この人は、僕のような苦しさを知らないだけなんだ。本当の苦しみを知らないからこんな軽々しい態度をとってしまっているだけ。僕よりもただ無知で経験不足なだけなんだ。」
と相手を哀れむような考え方をすすめる人が多いのですが、私はこの考え方がとても苦手です。
なぜなら相手も私と同じように、いやそれ以上に自分の感性で苦しんできた可能性もあるし、こちらの想像もできないほどのつらい体験を乗り越えてきたのかもしれない。
そして、それをみずからの努力で乗り越えたものすごい知と経験をもっているのかもしれない。
その可能性を完全には捨てきれないからです。
その可能性がありながら、自分の不愉快さをしずめるためだけに一方的に相手をおとしめて自分をもち上げるかのような都合のよい考え方をしようとしても、私は心からの納得を得ることができません。
無理やり自分をだましている気分がぬぐえないのです。
第一こちらだって、世間一般の感性からすればおかしなことを言っているなということくらいはわかっているわけで、その話にどんな形であれ耳を傾けてくれている相手を哀れんで済ますというのは、どうにも都合がよすぎる気がしてしまいます。
そこで、双方を受容しようとする。
つまり、「葛藤の渦の中」に飛び込んで自分の「深化力」を鍛え上げるのです。
しかしホテルの例とちがい、友人知人、医師という相手は、それなりに長くおつき合いしてきた人、そしてこれからも接点のある人です。
この場合、どのように双方を受容するかをスムーズに決めることは、誰にとってもかなり難しいでしょう。
すんなり答えは見つかりません。
相手を責めたり無視したりするのでもなく、反対に自分を責めたり恥じたりするわけでもない。
ましてや人より上に立った気になって、自分をだますこともしない。
どちらかの責任にして安易に答えを出そうとするのではなく、お互いの立場を受け容れ、新たな地平を見出そうとする。
ではいったいどうすれば、今回のような場面で双方を受容することができるのでしょうか?
Brain with Soul代表
生きづらさ専門カウンセラー
しのぶ かつのり(信夫克紀)
おかげ様でコラム数500本突破!