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超数派という新しい生き方

 

独自の生き方を表現した画像

 

植物が嫌いという病

 

第12回
無責任という解決法

 
前回の例のような場面で、安易に結論を出さずに、「葛藤の渦のなか」にとどまっていると、ありとあらゆる選択肢が思い浮かびます。
 
そあいだで数え切れないほど行ったり来たりをくり返し、意志は激しくゆれ動くことになります。
 
このような些細なことは許すべきではないか。
 
人間に「すべきこと」などあるのか。
 
些細かどうかは人それぞれではないか。
 
自分に怒る権利があるのではないか。
 
権利があることはすべて実行していいのか。
 
権利とはいったいなにか。
 
権利を盾に自分の感情をぶつけたいだけではないのか。
 
感情をぶつけることがなぜいけないのか。
 
相手の感情より自分の感情を優先するのはエゴイズムではないのか。
 
エゴイズムのない人間の行動などあり得るのか…。
 
そのような長くつづく振り子運動による葛藤は、結局のところ大きく分けてしまえば、
主に次の二つの欲求がせめぎ合っているために生じていると言えるでしょう。
 
1.相手の責任にして済ませたい
2.自分の責任にして済ませたい
 
しかし、この二点にこだわっているかぎりは、いつまでも葛藤から抜け出せないのは前回まで見てきたとおりです。
 
相手の責任にしようとしても、一方的に相手を「悪」だと決めつける傲慢さには耐えかねますし、それは相手の経験や力量を軽率に判断していることにもなり、自分をだまし切れません。
 
反対に、自分の責任にしようとしても、自分の不愉快な感情を見殺しにしてストレスにまみれることになりますし、そのような創意工夫のない態度で落ち着いてしまっては、今後も同じことがくり返されるだけでしょう。
 
さらに1を選んだ場合、やり方次第では今後その相手との関係が気まずくなるかもしれません。
 
かと言って2を選んだ場合、その人と会うたびにずっと我慢したり、わだかまりをもちつづけることになりかねません。
 
では、どちらか一方の責任ではなくて「双方の責任にしてみる」というのはどうでしょうか?
 
たとえば、以前たとえで挙げたような、
 
「この人は、僕のような苦しさを知らないだけなんだ。本当の苦しみを知らないから、こんな軽々しい態度をとってしまっているだけ。僕よりもただ無知で経験不足なだけなんだ。」
 
という、相手の責任にして自分をもち上げる悲劇のヒーロ的な考え方を少しやわらげて、まずは次のように考えてみます。
 
「この人は、私の感性がもたらす苦しさについて知らないだけ。その意味に限って言えば経験不足なのだ。だから思わず楽しんでしまったのだ。」
 
さらに、自分の責任を省みた次のような内容も加えてみましょう。
 
「そして私も、この人と同じ感性をもった人生を経験したことがない。だから、私もその意味で経験不足なのだ。だから、思わず不愉快になってしまったのだ。」
 
どちらかの責任にしているよりも、だいぶ受け入れやすくなってきたのではないでしょうか。
 
また相手や自分を上から一方的に許すのではなく、お互いが経験不足であるという「事実」を受容することができつつあるのではないでしょうか。
 
ここまで双方を受容することができれば、考え方にもかなり余裕が生まれ、冷静な対応がとれるようになるでしょう。
 
たとえば、つき合いを重ねながらだんだんと自分の感性について知っていってもらおうと考えるかもしれませんし、旅行や食事といった親しいつき合いは避け、軽いつき合いにとどめておこうとするかもしれません。
 
また、そこまでお互いの感性が違うのであれば、これを機に距離をおいていこうと決めることもできるでしょう。
 
ただたんに目の前の問題を解決するということであれば、今見たような「双方に責任がある」というところまで考えれば充分だと思います。
 
しかし、このコラムのテーマである超数派としての生き方を追及するのであれば、せっかく自分にもたらされた「実害」と、そこから生まれる葛藤を利用して、もっと自分を「深化」させていきたいところです。
 
そこで、次のように考えてみたいと思います。
 
「双方に責任がない」。
 
そんなバカな!
 
二人とも意志をもった人間なんだぞ。
 
どちらにも責任がないなんてあり得ない!
 
と、ついつい思ってしまいがちで、この選択肢は、「葛藤の渦のなか」にとどまらないかぎり浮かんでくることすらない場合も多いでしょう。
 
だからこそ、探求してみる価値があると思いませんか?
 
相手の人は、私の植物嫌悪症について、とても「楽しそう」な対応をつづけました。
 
一見それは相手の責任のように感じますが、もしかするとその原因は、その人が両親から「いつでも笑顔でいなさい。」という教育を受けたからかもしれません。
 
そうなると、その人の責任というよりは、その人の両親の責任だとは言えないでしょうか?
 
そして、その両親も自分の両親から同じような教育を徹底的に受けたのだとしたら、責任は相手の両親にすらなく相手の祖父母にあると言えるかもしれません。
 
さらに、その祖父母もその両親からそう教わってきたのかもしれません。
 
また、そもそも私がそこで植物嫌悪症の話をしなければ、相手は「楽しそう」にすることはなかったでしょう。
 
二人がその日に会う約束をしていなければ、相手は「楽しそう」にすることはなかったでしょう。
 
そして、二人が知り合うことがなかったら相手は「楽しそう」にすることはなかったでしょう。
 
つまり、相手の「楽しそう」な行動は、
 
「ありとあらゆる事情の組み合わせ」
 
によって生み出されたものだということ。
 
その責任を問おうとしたら、それらの「事情」をすべてさかのぼらなくてはならないのです。
 
そして一度さかのぼりはじめたら、「事情」はどこまでもどこまでもつづいていきます。
 
やがて、誰のどんな行動の責任もすべて「この世界で最初の生命」や、それより以前の「この世界のはじまり」へと帰結せざるをえなくなる。
 
この世界がはじまりさえしなければ、どんな行動も起きず、相手も「楽しそう」にすることはなかったのですから。
 
これは、私の責任を問う場合でも同じことです。
 
「楽しそう」にふるまう相手を許せないのは、前日に隣家の騒ぎ声で寝られなかったからかもしれませんし、面と向かって文句をつけられないのは遺伝なのかもしれませんし。
 
また、植物嫌悪症にはものごころついていたらなっていたわけですし、そもそも二人が知り合わなければ私が不愉快になることはなかったでしょう。
 
私の不愉快な感情も、
 
「ありとあらゆる事情の組み合わせ」
 
によって生み出されたのです。
 
つまり誰であっても、ある感情が湧き出てきたりある行動をとるからには、「なにかしらの事情」が必ずあるということ。
 
そして、その責任を問いはじめたら「この世界のはじまり」のせいにせざるをえなくなるのです。
 
それは「双方に責任がない」ということ。
 
つまり「無責任」ということです。
 
通常「無責任」という言葉は、本来果たすべき自分の責任をなにか別のもののせいにして、無かったことにするという意味で使われていますよね。
 
しかし、自分の責任が無いと言い張るのなら、先ほど見たような「あらゆる事情」の背後にある責任の連鎖へと自然と突入していきます。
 
それは、自分の責任を放棄した時点で、誰の責任も問えなくなるということ。
 
つまり、誰の責任でもなくなる。
 
それが「無責任」ということです。
 
「双方の責任ではない」という考え方は、まさに「無責任」という受容法だと言えるでしょう。
 
相手にも自分にも責任が無い。
 
この世界がはじまってからの、ありとあらゆる「事情」の組み合わせによってその感情も行動も生まれた。
 
誰のどんな感情や行動にも、常に何らかの「事情」がある。
 
その感情や行動が生じたことは、それらの「事情」による「仕方のないこと」だったのです。
 
そのように、双方を受容することで不愉快な感情がしずまったり、冷静に対応できるようになるかもしれません。
 
もしくは、問題はなにも解決しないかもしれません。
 
しかし、「実害」に対してなにか明確な解決策をとるという「結果」だけが、超数派にとって重要なのではありません。
 
深化した自分が「葛藤の渦のなか」に身を置くことでしか味わえない、人生や世界の奥底を垣間見る。
 
それを体験する瞬間。
 
そこには確かに、中身がギュッと詰った超数派ならではの「レアな人生」があるのです。
 
Brain with Soul代表
生きづらさ専門カウンセラー
しのぶ かつのり信夫克紀
 

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