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兄や姉からの虐待

 

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虐待の後遺症

 

第7回
兄や姉からの虐待

 
前回見たような子供が見殺しにされる虐待は、兄や姉といった、親以外の家族からもたらされることが多々あります。
 
親もその光景に慣れ過ぎてしまっているため、その心身への暴力を虐待だと考えず、兄弟姉妹喧嘩の延長ていどにしかとらえていません。
 
それゆえに、本気で止めようとはせず、

「ほらほら、その辺にしておきない(笑)」

と、いつものこととして軽く受け流してしまう。
 
そして、そのままテレビを見たり、洗濯物をたたんだり、そちらに目をやることもなく、当たり前の日常の一シーンとして、その場を立ち去ってしまうのです。
 
親という、本来自分を一番に守ってくれるはずの人が、自分が目の前でいたぶられていることを、笑みを浮かべながら堂々と見殺しにする。
 
このとき感じる絶望感、恐怖感は、その後被害者を長くながく苦しめることになります。
 
にもかかわらず、親自身は、自分が子供を見殺しにしたことにすら気づくことがないのです。
 
それほどまでに、その家庭では、兄や姉からの虐待が「日常」になってしまっているのです。
 
虐待を受けている子供は、兄や姉から心身への暴力を受けるという苦しみと、親から見殺しにされるという苦しみ、その耐えがたい二重の苦しみによって、心を日々着々と蝕まれていくのです。
 
親は、見殺しという残酷な虐待をおこなっているのです。
 
親が虐待を見殺しにし、その自覚すら持っていないということは、その虐待がその家には存在していないということになります。
 
つまり虐待を防ぎようにも、虐待が存在していないことになる。
 
ここにも、「偽しつけ」の例と同じように、虐待が兄弟姉妹喧嘩といった別のものと、すり替えられてしまっているわけです。
 
これでは、この家庭から虐待が消えることはありません。
 
そもそも虐待がおこなわれていないことになっているのですから、防ぎようも止めようもないわけです。
 
虐待を受けている本人からすれば、これほどまでに苦しいのに、我が家ではそれが問題にすらされない。
 
この感覚は、絶望という言葉では言い表せない筆舌に尽くしがたい苦しみであり、先にあげた二重の苦しみを包み込むような、さらに分厚く重い冷たい苦しみだと言えるでしょう。
 
そのような絶望的な状況の中で、虐待を受けつづけている弟や妹は、自らの心の崩壊と命の危険を感じ、当然のことながら親に救いを求めることがあります。
 
兄や姉からの攻撃を止めてくれ、なぜ止めてくれないのかと。
 
そこで待っているのは、親からの信じられないほど無神経な回答です。
 
「ただ遊んでいるだけじゃない。」
「兄弟喧嘩は、お向かいの○○さん家でも、よくやっているらしいぞ。」
 
そんな風に、重大な問題として決して受け止めようとはしないのです。
 
それでも、これ以上は耐えられないという身の危険を感じている子供が、助けて欲しいと食い下がると、
 
「そんなに嫌なら自分でお願いすればいいでしょ!」
「やり返せばいいだろ!なんでやり返さないんだ!情けない!」
 
と、みっともないほどのヒステリーを起こされてしまうのです。
 
声を荒げたいのは、子供の方なのに…。
 
中には、
 
「人間はね、最後はしょせん一人なのよ。」
 
と、幼い子供に、自分の心のさみしさから出た場違いな人生哲学を聞かせたり、
 
「おまえが赤ちゃんのとき、お父さんと、お母さんが喧嘩してな。お姉ちゃんを残して、おまえだけを連れてお母さんが実家に帰っちゃったんだ。そのとき、お姉ちゃんは、すごいさみしい思いをしていてね。そのせいでおまえを、ついついいじめてしまうんだ。わかってあげてくれないか。」
 
と、信じられない理屈で虐待を肯定し、両親の過失からくる責め苦を子供にかわりに受けつづけろと堂々と言い放つ親まで存在します。
 
それらの暴言を聞いた子供は、どんなにもがいてもこの地獄の監獄からは脱け出せない、この苦しみがあと何年何年もつづくのかという、さらなる絶望感を深めていくのです。
 
では、なぜこれほどまでに、親は子供同士の虐待の存在を受け入れようとしないのでしょうか。
 
それは、自分の身や自分の安定した日常空間を守りたいからという、たいへん身勝手な理由に他なりません。
 
それは、「面倒はごめんだ」「面倒くさい」という言葉に言いかえることができるでしょう。
 
そんなささやかな理由のために、子供は心の崩壊と命の危険にさらされつづけるのです。
 
子供同士のもめごとというのは、どちらかの味方をしてしまえば、もう片方の子供が機嫌を
損ねてしまうものであり、そのため親が恨まれてしまうこともあります。
 
にもかかわらず、子供の話を聞いただけでは判断できないような難しい場面も多い。
 
だから、関わりたくない、自分に面倒を持ちこまないで欲しい。
 
そんなていどの考えで、子供の必死の訴えを退け、子供の命を軽くあつかってしまうのです。
 
また、我が家に虐待が存在していることを、親が絶対に認めたくないというケースも多い。
 
兄や姉からの虐待が存在している家庭には、親が無駄に厳しすぎるというケースがよくあるのです。
 
親が兄や姉を「長男だから」「長女だから」と厳格に育て過ぎてしまったために、弟や妹が、そのフラストレーションのはけ口にされてしまう。
 
しかし、親は「しっかり育てている」という幻想にはまっているために、我が家で自分の育て方の落ち度によって不具合が生じていることが認められないのです。
 
「ちゃんとやっているのに、そんなわけはないんだ!」
 
という、とても幼いメンタリティによって、自分の家庭に存在している虐待から目をそらしてしまうのです。
 
いえ、虐待という言葉すら頭に浮かばない。
 
もし浮かんだとしても、「認めたくない!」と無自覚のうちにその事実をよけてしまう。
 
それは、幼児がカレーを食べるとき、嫌いなニンジンを知らず知らずのうちによけているのとかわりません。
 
そのていどの幼児的な感性で、自分の子供が日々繰り広げている凄惨な暴力を、自分の人生の邪魔もののように脇へとよけてしまうのです。
 
このような虐待の構図が、家庭のなかで当たり前の「日常」と化してしまう大きな要因がひとつあります。
 
それは、それらの虐待が、はじめは「遊びの延長」からおこなわれるようになったということです。
 
つまり兄や姉が、弟や妹の顔を見るなりいきなりなぐりかかるような「派手な虐待」ではないということ。
 
一緒に遊んでいたはずなのに、いつのまにか心や体に暴力をふるいはじめていた、そんなパターンが多いため、親はそれを深刻な虐待と認識し損ねているのです。
 
そのうち、その流れが我が家の兄弟姉妹の「遊びのパターン」として通常化し、親の感覚がマヒしていくのです。
 
その心身への暴力が、たとえ「遊びの延長」ではじまったものであっても、受けている側からすれば、その耐えがたい苦痛にかわりはありません。
 
どんなに苦しくても誰も助けてくれないという、その絶望感にあえぎながら、ただひたすら耐えつづけるしかないのです。
 
そして、このような兄弟姉妹同士による「遊びの延長」でおこなわれる虐待は、常に迎合してしまうという虐待後遺症を生み出してしまいます。
 
次に、その具体的な事例を見ていきましょう。
 
 
Brain with Soul代表
生きづらさ専門カウンセラー
信夫克紀(しのぶ かつのり)
 

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