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ネチネチとくり返す長い説教

 

虐待の後遺症第5回 ネチネチとくり返す長い説教

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虐待の後遺症

 

第5回
ネチネチとくり返す長い説教

 
自分でも気付かぬうちに迎合してしまう
 
また、すぐに迎合してしまう自分に気づいているにもかかわらず、どうしてもやめられない。

そのような人は、幼少の頃に、心身の『安全』を常におびやかされる環境にいた可能性があります。
 
つまり、自分のそばにいる人の機嫌を損ねてしまうと、その後に必ず、ひどい苦痛を味わなくてはならなかったのです。
 
それは、暴力や体罰のような、体に対する苦痛であったとは限りません。
 
無視や説教、脅しや強要など、心にとても大きな負担がかかるような苦痛であったかもしれません。
 
それらの苦痛を受けたことによって、すぐに迎合して『安全』を確保する癖が、知らず知らずのうちについてしまった可能性があるのです。
 
ここで、わかりやすい例をあげてみましょう。
 
といっても、それは、今の苦しみを過去の誰かのせいにして相手を責め立てるためではありません。
 
あくまでも、原因を把握するためであることを、しっかり理解してください。
 
たとえば、まだ幼い子供が、何か親の気に入らないことをしてしまったとき。
 
親から、
 
「もうご飯つくってあげないからね」
 
と突き放されたり、
 
「お前なんてうちの子じゃない。出ていけ!」
 
と怒鳴られる。
 
また、
 
「そんなに私のことが嫌いなら出ていきます。」
 
と荷物をまとめるふりをされる。
 
急にヒステリーを起こされて、
 
「いい加減にしてよ!私だってこんなに頑張ってんじゃない!」
 
と物を投げられたり、わめき散らされる。
 
なかなか言うことを聞かないと、低くドスのきいた声で
 
「ごぉ~、よぉ~ん、さぁ~ん…」
 
とカウントダウンをされる。
 
このような親の行動に共通して言えることは、子供に対して親が脅迫しているということです。
 
少し過激な言葉に聞こえるかもしれませんが、それが事実です。
 
自分の方が生活力があり、体力もあるのをいいことに、子供を脅すことで、無理やり言うことを聞かせようとしているわけです。
 
親も人間ですから、このような行動はどこの家でもよく見かけることではあるでしょう。
 
しかし、これが頻繁におこなわれており、子供に言うことを聞かせる基本パターンになっていたのだとすれば問題です。
 
それは、親から子供への脅迫が、日常になっていたということだからです。
 
このような状態で言うことを聞いた子どもは、もちろん心から納得をして親の言うことを聞いたわけではありません。
 
あくまでも、親の脅しに恐怖し、屈服しただけです。
 
恐怖を終わらせるために、親に迎合をしたのです。
 
つまり、親からの脅迫が日常になっていた家庭では、
 
子供は、自分の意志よりも、迎合することで問題を解決するという癖が自然とついてしまうのです。
 
そしてそのことが、知らずしらずのうちに後遺症となり、学校での人間関係や、のちの社会生活で苦労していくことになるのです。
 
ただ、このような親からのあからさまな脅迫については、子供もどこか冷めた目で見ていることがほとんどです。
 
たとえ自分の親だとはいえ、この言い分はどう考えてもおかしいよなと子供心に思う。
 
つまり、親に脅迫されているなと感覚的に気がつくことができるケースもあるのです。
 
しかし、このようなケースに当てはまらない、さらにたちの悪いケースがあります。
 
それは、親が、しつけのふりをして、子供に迎合を迫るケースです。
 
親も子供も、それがしつけだと信じているため、そこで身に着けてしまった迎合が自覚されることなく、虐待の後遺症として心の奥底に行動パターンとして深く刻み込まれてしまうのです。
 
ここで、この「しつけのふりをして迎合を迫る」というケースについて、詳しくみていきましょう。
 
少し具体的に書いていきますので、読んでいてつらくなってしまいそうでしたら、どうぞ無理をせずに読み飛ばしてください。
 
あなたには、こんなご経験はないでしょうか。
 
学校の成績が悪かった、また母親と買い物中に近所の人に上手に挨拶できなかった。
 
すると、仕事から帰った父親に、寝る前に呼びつけられる。
 
そこから、長々とお説教がはじまる。
 
それも、1時間や2時間ではない。
 
夜の11時になっても1時になっても終わらない。
 
うっかりウトウトすると、顔を洗ってこいと怒鳴られる。
 
下手をすればコップの水を顔にビシャっとかけられる。
 
ひと段落したところで、長くつづいたそのありがたいお説教の重要なポイントや、怒られた理由を答えさせられる。
 
それが父親の本意とほんの少しでもずれていただけで、
 
「違うよぉ、何でわかんないんだよぉ、お前わぁ。」
 
と、またはじめから延々と同じ話が繰り返される。
 
そしてまた、ポイントや理由への明確な答えを求められる。
 
あなたは幼い目をこすり、意識を失いかけている頭で太ももを強くつねりながら必死で答える。
 
完璧に答えたはずでも、やはり難癖をつけられる。
 
まったく理解できていないと責められる。
 
そして、何度も何度も何度も何度も謝らされる。
 
やがて、窓の外が白みはじめてきたころ、「ここまでにしておいてやろう」とばかりに、やっとお許しが出される。
 
そして必ず最後に、
 
「ここまで熱心にしかってくれる親なんてなかなかいないぞ」
 
「お前のためを思って言ってやってるんだからな」
 
と強く激しく恩を着せられる。
 
その真夜中とは思えないほどスッキリとして晴れやかな父親の顔を見ながら、あなたはお説教の内容などよりも、とにかくやっと解放されたという心からの安堵感に満たされドロのように眠りにつく…。
 
このような、異常なまでにネチネチとした説教を好む人というのは、創業社長や古いタイプの教師などにもよく見かけますが、これが何年ものあいだ、毎日ともに暮らす実の親であった場合、迎合という虐待の後遺症を被害者側に残してしまう原因にもなります。
 
このようなネチネチとくり返す長い説教を受けているあいだ、被害者である子供は、説教の内容よりもある部分に気持ちが集中してしまっています。
 
それは、父親の顔色、声色です。
 
あまりの長時間の苦痛のために、この説教がいつ終わるか、いつになったら許しを得られるのか、それしか気にすることができない。
 
そして、相手の機嫌を損ねないようにすることだけに、意識が集中してしまっているのです。
 
まさにそこにこそ、迎合の根が育まれてしまいます。
 
相手が求めていなくても、大きな声で「ハイ!ハイ!」と返事をする。
 
相手の目をしっかりと見据えて背筋を伸ばして座り、過剰なくらい真剣に聴いていますと無言のアピールをする。
 
「だから、いつまでたってもお前はダメなんだ」
 
と非難されると、
 
「その通りです」
 
と反省していることを前面に打ち出す。
 
一挙手一投足、すべての行為が相手の機嫌を損ねないためのものになってしまうのです。
 
もちろん、子供の頃、誰もが親や先生のお説教を回避するために、このようなテクニックを心の中で舌を出しながら使うでしょう。
 
しかし、これが4時間、5時間、さらに意識も混濁してくる真夜中までつづけられれば、その苦痛に舌を出す余裕はありません。
 
どうにかしてこの責め苦を終わらせてもらいたい。
 
本当に許してもらいたい。
 
その切なる願いを、行動だけでなく、表情の一つひとつまで使って表現し、相手の機嫌を損ねないよう全身を使って迎合してしまうのです。
 
幼い子供には、それしか方法がないのです。
 
こんなことが、何度も何度も数え切れぬほどくり返されてしまえば、
 
その子供は、気づかぬうちに相手の顔色や声色ばかりを気にして、人と会話をするようになってしまうでしょう。
 
会話の内容よりも、相手の態度ばかりが気になってしまい、自然と相手の機嫌をとるかのように迎合してしまうようになるのです。
 
このようなネチネチと繰り返す説教は、実はしつけではなく、父親が子供という自分より立場の弱いものを意のままにコントロールして、自分のウサを晴らしているにすぎません。
 
ただし本人にその自覚はなく、「子供のためのしつけ」だと自分で思い込んでしまっています。
 
だから、「手間かけさせやがって」と子供を責める気持ちはあったとしても、微塵も罪悪感を感じていないことがほとんどなのです。
 
そして、このコントロールの爽快感が病みつきになってしまい、ことあるごとに子供のやることのあげ足をとってはからみつき、言葉尻をとってはからみつき、長いながい説教をしかけてくるのです。
 
それがどんなに徹夜での作業になろうとも、気持ちがよくて本人は気分爽快なのです。
 
父親の役目を果たしたという充実感さえ感じています。
 
そしてこのような虐待行為を、本気でしつけだと思いこんでしまっているのです。
 
こういう行為におよんでいた父親ご本人から、カウンセリングなどで直接お話をうかがってみると、ほぼ間違いなく、ご自分も親におなじことをされてきています。
 
だからなおさら、これが虐待だとは思えない。
 
自分も親からされてきたことだから、たとえ苦しくても、それは我が家のしつけの「スタイル」であったと認識しているのです。
 
自分がされてきて苦しかったことと同じことを相手にしてウサを晴らすというのは、体育会系のしごきとまったく同じ原理です。
 
やっと自分がしごける立場になったことが、嬉しくてうれしくて仕方がないという状態。
 
自分たちは我慢してここまできた、だからお前も我慢しろ。
 
俺だけ我慢させられて、お前が我慢しないことは我慢ならんという、稚拙で浅はかな考え方に過ぎません。
 
さらに、体育会系のしごきよりも、しつけという明確な大義名分があり直接的な暴力でもない分、悪意に気づけずよりたちが悪いのです。
 
確かに、怒りなど、他の感情をまったく入れずに純粋に子供のために「しかる」ということは、人間であるかぎり、誰もがいつでもできる芸当ではないかもしれません。
 
ただし、そのことを自覚できているかどうかは、とても大きな問題です。
 
自分が今、感情にのまれてしまっているだけなのかどうか。
 
説教のあとでもいいから、気がつくことができるか。
 
それができない親が、このような何時間にもわたるウサ晴らし説教を、くり返し子供に延々と浴びせかけてしまうのです。
 
先ほどの例に出てきたような父親は、心から「子供のため」だと、自分を完全にだましきっています。
 
だから説教が長くなれば長くなるほど、それが「子供のため」になってしまうという恐ろしい論理です。
 
本当は、自分が気持ちよくてやめられなくなっているだけにもかかわらず、すべてが子供のためになってしまっている。
 
そして、子供がどんなに苦しんでいようとも、「お前のため」という錦の御旗を振りかざして、自分の心も子供の心も屈服させてしまうのです。
 
そこまで真正面から親に恩を着せられてしまっては、子供の側も、これが虐待だと気がつくことはできません。
 
厳しくしつけてもらっていると感謝すらするでしょう。
 
そして、気づかぬうちに、迎合という虐待の後遺症を背負って生きていく事になり、惨めな思いをくり返し、そんな自分を責め、冷や汗を流しながら人間関係を築いていくことになるのです。
 
Brain with Soul代表
生きづらさ専門カウンセラー
信夫克紀(しのぶ かつのり)
 

 
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