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更新日:2022年4月25日

生きづらい人は「意志が弱い」のか?

 

生きづらい人は「意志が弱い」のか?

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生きづらい人生の歩き方

 

第121回
生きづらい人は「意志が弱い」のか?

 
生きづらい人は、「意志が弱い」と言われがちです。
 
しかし、じつは生きづらい人の「意志は強い」と言えるでしょう。
 
この記事では、その「事実」をわかりやすくていねいに解説していきます。

さらに「意志が弱い」という思いから脱け出す具体的な方法をご紹介します。
 

目次

できないことを「意志の力」でやろうと苦しんでいる
「意志の強さ」の基準はアテにならない
生きづらい人は意志が強い
そもそも意志の力は弱い
そもそも意志はたいして日常生活にかかわってない
そもそも自由意志なんてあるのか
「こうする!」と決める前に脳は動いている
私たちは「決める」ことができない
しのぶが著書で言っている「自由意志はある」の意味
自由意志はないと言われ「だよね~」と思った私
自由意志の存在を疑う場面
能動でも受動でもない言葉がある
自由意志とは立場が強い人と多数派に都合のいい便利アイテム
自分に責任はないのか?
自由意志だと思ってるものはただの感想
「意志が弱い・・・」から脱け出す具体的な方法
意志がはたらきやすい心と体と環境を整える

 


┃「できない」ことを意志の力でやろうと苦しんでいる

 
疲れ果てた男性

 
生きづらい人は「意志が弱い」と悩んでいます。
 
なぜなら、みんなが当たり前にできることが、自分にはできないからです。
 
たとえば、
 
・気軽な会話ができない
 
・雑音のなかで仕事ができない
 
・時間どおりに行動できない
 
・空気を読めない
 
・整理整頓ができない
 
・ものごとに集中できない
 
・集中を気軽にやめられない
 
・暴力的な映画やドラマが見られない
 
・苦手なものや怖いものが克服できない
 
それはすべて「意志が弱い」から・・・、子供の頃から、いつもそう言われてきました。
 
とてもつらい思いをしてきました。
 
そのため、生きづらい人は「できない」ことを「意志の力」でやろうとして苦しんできたのです。
 
しかし、もうそんな苦しい努力は手放しましょう。
 
なぜなら「できない」と「やらない」は違うからです。
 
誰だって「できない」ことがあります。
 
それは、いくら「やろう」としてもできないもの。
 
だから「できない」という言葉が、わざわざあるのです。
 
参照記事
あなたが無理しすぎてしまう本当の理由
『できない』と『やらない』を見極める方法について詳しく解説しています。

 
そうです。
 
あなたは「意志が弱い」わけではない。
 
これから私がその理由を、詳しく説明していきます。
 
そもそも、意志の強さを計る基準とは、どこにあるのか?
 
そこまであなたを責めるからには、さぞや立派な基準があると思いきや・・・。
 


┃「意志の強さ」の基準はアテにならない

 
生きづらい人は、「意志が弱い」と思いこまされてきました。
 
くり返しますが、その考えはあらためた方がいいでしょう。
 
なぜなら、世間の「意志の強さ」の基準は、いい加減でアテにならないから。
 
条件を無視して、結果だけで判断しているからです。
 
たとえば、朝起きられない人を見ると。
 
世間の人たちは「意志が弱い」と言います。
 
しかし本当にそうでしょうか?
 
すべての人が同じ条件で朝を迎えているわけではありません。
 
たとえば、「グッスリ眠れる人」と「不眠症でいつも寝不足の人」がいたら?
 
当然「不眠症でいつも寝不足の人」の方が、起きるときにより多くの意志の力を必要とするはずです。
 
つまり、その二人が同じ時間に起きたとしたら「不眠症でいつも寝不足の人」の方が、強い意志の力を発揮したことになります。
 
にもかかわらず、世間では「グッスリ眠れる人」が時間どおりに起きることを、
 
「意志が強い」
 
と判断します。
 
そして「不眠症でいつも寝不足の人」が、体を引きずるように必死に起きてきた姿を見て、
 
「意志が弱い」
 
と責めるのです。
 
とてもフェアとは言いがたい判断ですよね。
 
つまり「意志の強さ」とは、結果だけ見てもわからないものだということです。
 
条件まで見なければ判断できないもの。
 
だから世間の「意志の強さの基準」はアテにならない、いいかげんなものなのです。
 
その「事実」をまずしっかりと確認しておきましょう。
 


┃生きづらい人は意志が強い

 
「意志の強さ」は、条件まで見なければ判断できない。
 
そこから新たなことがわかります。
 
それは、生きづらい人の「意志は強い」ということです。
 
なぜなら、生きづらい人は常に「重たい荷物」を背負っているからです。
 
生きづらい人は、日常生活を送るだけでも強い意志を必要とする条件を、たくさん背負っています。
 
たとえば、手足がほとんど動かせない、目が見えないといった体の条件のこともあるでしょう。
 
また、苦手なものが多かったり、注意や集中ができないといった心の条件のこともあるでしょう。
 
さらに、ブラック企業に勤めたり、親が激しい過干渉をしてくるといった、環境の条件のこともあるでしょう。
 
生きづらい人は、そのような「重たい荷物」をいくつも背負って生きています。
 
にもかかわらず、他の人たちと同じ道を歩いている。
 
それは、歩くために必要な「意志の力」が、世間の人たちよりも大きいということ。
 
他の人たちと同じことをしていても、使っている「意志の力」は生きづらい人の方が大きい。
 
つまり生きづらい人は、他の人たちよりも「強い意志」を発揮しているのです。
 
ただ、その「重たい荷物」が周囲の人たちから見えないもののとき、「意志が弱い」と決めつけられてしまっているだけなのです。
 
だから、生きづらい人の「意志は強い」。
 
生きづらいという「重たい荷物」を背負って、毎日生きているのですから。
 
ただ生きているだけで、世間の人たちには想像もできないほど「強い意志」を発揮しているのです。
 


┃そもそも意志の力は弱い

 
ここでひとつの疑問が湧いてきます。
 
そもそも、世間でもてはやされているその「意志の力」というものには、本当にそこまでの影響力があるのでしょうか?
 
「意志の力」が絶大な力をもっているなら、世の中にこんなにも「新しいダイエット法!」があふれ返ることはなかったでしょう。
 
こんなにも次から次に「腹筋を楽に鍛えるマシン」が開発されることもないでしょう。
 
こんなにも絶え間なく「こんどこそつづけられる英会話法」が発売されることもないでしょう。
 
思い起こしてみれば、私たちはあらゆる決断の場面で「惨敗」をしています。
 
「意志の力」で状況を打開した経験など、数えるほどしかないのではないでしょうか?
 
そう、そもそも人間の「意志の力」は弱いのです。
 
にもかかわらず、ときおり自分の意志が「強い!」と自慢している人を見かけます。
 
そういう人にかぎって、自分の信念や生活パターンを強要してくるから困りものです。
 
「私は意志が強い!」と言っている人のほとんどは、たまたま自分に合った社会のなかで、たいして意志の力を使わずに済んでいるだけに過ぎません。
 
それは、障害物競争をしている人の横で平坦な道を走って「私は脚が速い!」と勘違いしているようなものです。
 
ただたんにラッキーなだけであるということに、気づいていないケースが多いのです。
 


┃そもそも意志はたいして日常生活にかかわってない

 
もう一つ重要なこと。
 
そもそも意志は、私たちの行動にそんなにかかわっていません。
 
「えっ?!」と驚かれるかもしれません。
 
しかしそれは、私たちが「あらゆる行動を自分の意志で決めている」という間違った前提をもっているからです。
 
社会心理学者のバージは、私たちの日常生活の99%以上の行動が、意志とは関係なしに自動でおこなわれているとまで主張しています。
 
参考文献
山下直治「認知活動における構えの形成と転換」

 
極端ではありますが、たしかに思い当たる話でもあります。
 
私たちは歩き出すとき、いちいち「歩け!」と思いませんよね。
 
もし思ったとしても、「まずは右足から!」とまでは決めないはずです。
 
もし決めたとしても、そのあと歩いているあいだじゅう「右足を前に出し、左手を前に振りながら、左足を後ろに蹴り上げ・・・」などと考えていないですよね。
 
自動で歩いているのではないでしょうか。
 
また、胃や腸に、
 
「消化液を出せ!」
 
「繊毛を動かして便を肛門に近づけろ!」
 
と念じないでしょう。
 
胃も腸も、意志とは無関係に、勝手に食べ物を便にしてくれています。
 
そして最後の最後、直腸に入ったところで排便をガマンするくらいのことでしか、意志ははたらきません。
 
意志は、私たちの日常生活に、ほとんどかかわっていない。
 
つまり私たちは、あらゆることを自分の「自由意志」で決めて生きていると思いたいだけ。
 
ほとんどの決断にも行動にも、「意志の力」は役に立っていないにもかかわらず・・・。
 

┃そもそも自由意志なんてあるのか

 
砂浜とパラソルの画像

 
次に、その「自由意志」について考えてみましょう。
 
どんな条件にも影響を受けず、さいごにものごとを決める意志。
 
それが自由意志です。
 
世間で言われている「意志の強さ」も、ほとんどの場合この自由意志のことを指しています。
 
そのために生きづらい人は、「意志の強さ」でなんとかしろという無理難題をつきつけられてしまうのですね。
 
しかし・・・・。
 
そもそも「どんな条件にも影響を受けず、さいごにものごとを決める意志」なんて存在しているのでしょうか?
 
誰だって、過去の記憶や上司の顔色やお腹の空き具合など、無数の条件の影響を受けてものごとを決めていますよね。
 
それらすべてを取り払って「これに決める!」という意志なんて存在できるでしょうか?
 
もし上司の機嫌が悪いときに、「にもかかわらず、俺は休む!」と決めたとしても。
 
それは「風邪気味」とか「仕事するのがバカらしいほど天気がいい」といった条件の影響を受けています。
 
たとえ「自分の信念」に従ったのだとしても、その信念もどこかでなにかの影響を必ず受けています。
 
私たちは、生まれたときから絶え間なく「条件の影響」にさらされて生きてきました。
 
そのなかで「条件もなしになにかを決める力」なんて成立しうるのでしょうか?
 
これは「砂のない砂浜にパラソルを立てる」ようなものだと私は思います。
 
ぜひ想像してみてください。
 
砂のまったくない砂浜を。
 
まずその時点で無理ですよね。
 
それはもはや砂浜ではないわけですから。
 
ましてやそこにパラソルを立てることなんてできません。
 
無数の砂(条件)に支えられて、パラソル(意志)は立っている。
 
自由意志を成立させるのは、とうてい無理な話なのではないでしょうか。
 

┃「こうする!」と決める前に脳は動いている

 
そう言われても、じっさいにやっぱり私が決めている。
 
だって、行動するときに「こうする!」としっかり意識できているから。
 
たしかにそう感じますよね。
 
でも・・・。
 
脳科学の世界では、有名な実験がありますよね。
 
私たちが意識で「こうする!」と決める0.4秒ていども前に、脳はすでにその行動のために動きはじめている。
 
つまり「意志の力」で決断したときには、すでに動くと決まっていたというのです。
 
参考文献
B Libet,et al「Time of conscious intention to act in relation to onset of cerebral activity」1983

  
もちろん、これだけでいちがいに「自由意志はない」と決めつけるわけにはいきません。
 
ただ、この事実をさらに強く裏づける同様の実験もおこなわれ、同じような事実が報告されています。
 
つまり、私たちの意識は、どこかで決まった「結果」をあとで受け取っているだけ・・・。
 
それを「私が決めた!」と勘違いしているだけかもしれないのです。
 

┃私たちは「決める」ことができない

 
さらに、そもそも「決める」ということ自体ができないという人もいます。
 
京都大学準教授、哲学者の青山拓央さんは言います。
 
「生きていくことは決断の連続だが、決断の瞬間は特定できない。」
 
参考文献
青山拓央「時間と自由意志」

 
つまり、時間の流れのなかでは「決める」タイミングは与えられていない。
 
なぜなら、「AとBどちらにするか」と決める分岐点が、Aの時間上にもBの時間上にも含まれてしまうからです。
 
Aに進むなら、どこかでBに進む道は閉ざされなければなりません。
 
しかし、そのタイミングが見つからないのです。
 
分岐点の真上では、どちらにでも行けてしまう。(まだ決まっていない)
 
分岐点の前でも、どちらにも行けてしまう。(まだ決まっていない)
 
分岐点を過ぎたら、どちらかを選んだあと。(すでに決まっている)
 
とことんまで考え抜く哲学の世界でも、自由意志はかんたんには存在を認めてもらえないようです。
 

┃しのぶが著書で言っている「自由意志はある」の意味

 
「でも、しのぶさんは著書のなかで自由意志はあると説明していますよね?」
 
しっかり読んでいただき、ありがとうございます。
 
たしかに私は、自由意志はあると説明しています。
 
でもそれは、世間で言われているような自由意志ではありません。
 
ここまで述べてきたように、私はそのような「いわゆる自由意志」は成立しないと考えています。
 
私は、人間が意志だと感じているものは「Brain with Soul現象」の一つだと考えています。
 
参考文献
しのぶかつのり「生きづらさから脱け出す実践法」

 
私たちの目の前に起こっているできごとは、その一つひとつが無数の「原因と結果」の玉突きの果てに生じたもの。
 
そんな、始まりも終わりもなく無限かもしれない「原因と結果」の玉突きのなかで、必然と偶然の末によって生じる無数の物や現象。
 
そのなかで、ある一定の方向に向かおうとする力が「意志」である。
 
私はそう考えています。
 
だから、人間だけではなく、木や石にも当然意志があると私は考えています。
 
木も「伸びよう」としますし、石も同じ形をできるだけ「保とう」とします。
 
それらはすべて、私の言うところの「意志」です。
 
ですので、その膨大な玉突きや意志とは無関係に、突然現れて「えいやぁ!」と決断をする「いわゆる自由意志」は存在しない。
 
いえ、入る余地が見つからないと考えています。
 
ただ、それだと違和感がありますよね。
 
というか、今まで「いわゆる自由意志」で決めていると思って生きてきたのに、不安になるのが自然だと思います。
 
であれば、「自分の体のなかで起きた玉突き」のことを「自由意志」と呼んではどうですかと述べたわけです。
 
どうしても自由意志がなければ不安だと感じるなら、そうしてはどうでしょうかという提案をさせていただいたのです。
 
自分のなかで起きた「意志」なのですから、自由意志(自分に由る意志)と呼んでさしつかえないのではないでしょうか。
 

┃自由意志はないと言われ「だよね~」と思った私

 
そんな私も、「いわゆる自由意志」がないという意見に最初に触れたとき。
 
不安になりました・・・と言いたいところなのですが、じつは「安心」してしまいました。
 
それどころか、
 
「だよね~~~!!!!」
 
と、めちゃくちゃ同意して、ホッとしたのです。
 
なぜなら、生きづらい私は、なにからなにまで「いわゆる自由意志」でコントロールしろと言われてつづけ、苦しんできたからです。
 
たとえば、私は子供の頃から「話しつづけてしまう」という性質をもって生きてきました。
 
当然、授業などに差しつかえがあるため、かなり厳しく注意を受けてきました。
 
教卓の真横の「特別席」に座らされていたこともあります。
 
そこに、「失言」が多いという最悪の合わせ技をもっていました(苦笑)
 
話しつづけてしまう上に失言が多いわけですから、毎日のように誰かを怒らせていました。
 
また、整理整頓がまったくできなかったので、学校ではいつも机の中やロッカーがゴチャゴチャでした。
 
そもため、教師からはいつも叱られ、同級生からもからかわれていました。
 
さらに、私は植物をなによりもおぞましく感じ、直視することすらできません。
 
病院や飲食店などには、植物が多いためかんたんには行くことができません。
 
植物柄の服や布団や椅子も使えません。
 
ですので、「花壇の水やり」や「あさがおの観察」や「植物採集」などは、たんなる苦行以外のなにものでもありませんでした。
 
多くの人にとって「ゴキ〇リのエサやり」や「ゴキ〇リの観察」や「ゴキ〇リ採集」は、たんなる苦行でしょう。
 
しかし・・・。
 
それらの私の性質はすべて「いわゆる自由意志」でコントロールできるものだとされていました。
 
その前提でお話が進んでいくのですが、私にはまったくそれがしっくりきませんでした。
 
なぜなら私は、その性質をコントロールするために、すでに思いつくかぎりの工夫をし、全身全霊で「意志の力」を使っていたからです。
 
にもかかわらず、それらの性質をコントロールできずに、苦しみつづけていました。
 
やがて私は、「自由意志なんてあるのか?」と、疑いはじめるようになりました。
 
 


┃自由意志の存在を疑う場面

 
そんな私が、自分の生活のなかで「いわゆる自由意志」の存在をもっとも疑う場面をご紹介したいと思います。
 
それは、私が年中遭遇する次の3つの場面です。
 
1.気づいたらやっている
 
2.思っていることと違うことをやってしまう
 
3.どんなにこらえてもやってしまう
 
一つずつ説明しますね。
 
まず、1の「気づいたらやっている」。
 
たとえば、気づいたら話しはじめていて、話しつづけている、そんな場面です。
 
そして途中で「やってしまった」と気づくわけです。
 
「話さない」と紙に貼ろうが、手に書こうが、忘れないように痛くなるほど指にゴムを巻きつけようが、「気づいたらやっている」という場面。
 
これを「いわゆる自由意志」で事前にコントロールしろと言われても、なかなか納得ができません。
 
なぜなら「いわゆる自由意志」を使うタイミングが見当たらないからです。
 
まるで、バッターボックスに立ってもいないのに、
 
「なぜ打てなかったんだ!」
 
と叱られているような感じがするのです。
 
次に、2の「思っていることと違うことをやってしまう」。
 
たとえば、優しい言葉をかけようとしたのに、相手を傷つける言葉を発している。
 
そんなことがよくありました。
 
そんなことを言ってはいけないとわかっている。
 
でも私の意識とは無関係に、自分の体が発してしまう。
 
自分でも「な、なぜだ・・・」と呆然とする。
 
まるで映画を見ているように、私を抜きにして目の前のできごとが進んでいく。
 
そんな感覚を、今でもよく味わいます。
 
最後に、3の「どんなにこらえてもやってしまう」。
 
たとえば、話してはいけないとわかっている場面。
 
「意志の力」で必死にこらえるわけです。
 
でも、次から次へと自分のなかに膨大な「言葉」が浮かんできて、おさまりきらなくなる。
 
話したい衝動が込み上げてくる。
 
やがてそれは強烈な「突き上げる衝動」となって、私の口をこじ開けようとする。
 
どうにか抑え込もうとするけれど、やがて「突き上げる衝動」に突破され、話しはじめてしまう。
 
この「突き上げる衝動」は、激しい嘔吐や排便の衝動のよう。
 
感覚的には生理現象に近いものだと、私は常々感じていました。
 
どんなにこらえても「限界」がある。
 
そして嘔吐や排便よりも強烈な衝動なのです。
 
絶え間なくくり返し襲ってきて、やがて自然と「突破」されてしまう。
 
「いわゆる自由意志」なんて無視されて・・・。。
 
それが私の実感です。
 


┃能動でも受動でもない言葉がある

 
オレンジの画像

 
数年前から注目されている考え方に「中動態」というものがありますよね。
 
これも「いわゆる自由意志」を考えるうえで、非常に重要です。
 
中動態は、今の能動態と受動態よりも歴史のある、もう一つの「態」です。
 
つまり、能動(自分がする)でもない。
 
かといって、受動(誰かにされた・させられた)でもない。
 
自分がその行動の「場」となっているものが中動態です。
 
私の説明ではわかりにくいですね(笑)
 
もうちょっと頑張ってみます。
 
たとえば「欲する」という言葉は、ギリシア語では中動態だそうです。
 
おいしそうなオレンジがあって、むしょうに食べたいと感じたとき。
 
「私」が欲したのか?
 
それとも「オレンジ」に欲っさせられたのか?
 
中動態は、どちらでもありません。
 
<引用>
「というのも、欲するという過程においては、私が欲するというより、私のなかで欲望や欲求が働いて何かを求めるわけです。「私」はその欲望や欲求にむしろ突き動かされており、欲望や欲求が働く場所になっていると言ってもいい。」
出典
國分功一郎 熊谷晋一郎「<責任の生成>中動態と当事者研究」

 
これが、自分がその行動の「場」になっているという意味です。
 
納得ですよね。
 
ただ現代の言葉では、このことがうまく表現できない。
 
そのために、すぐに「私」か「オレンジ」の責任かを問われてしまうということですね。
 
今私たちが使っている言葉は、あまりに極端だということでしょう。
 
ちなみに、著者のお一人である國分功一郎さんも、この本のなかで明確に「いわゆる自由意志」について、もはや「信仰」だと述べておられます。
 
そうおっしゃっる方の本が売れているわけですから、「いわゆる自由意志」に違和感を覚えている人は意外とたくさんいる。
 
もしくは、うんざりしているのかもしれません。
 

┃自由意志とは立場が強い人と多数派に都合のいい便利アイテム

 
ではなぜ、こんなにも疑わしい「いわゆる自由意志」が、世間で広く承認されているのでしょうか。
 
というよりも・・・、
 
「いわゆる自由意志」を中心に社会が動いているといっても言い過ぎではないでしょう。
 
つまり、「いわゆる自由意志」には大きな力があり、その力によってあらゆることを決断し実行しているという論理。
 
だから、なにか間違いが起きれば、すべてそれは決断し実行した人の責任なのだ・・・。
 
私たちの社会はその論理で動いています。
 
なぜでしょうか?
 
シンプルに「立場の強い人と多数派にとって都合がいいから」でしょう。
 
立場の強い人(上司や親など)からすれば、「いわゆる自由意志」がないと、その人の責任を問えなくなります。
 
たとえば、無断で会社を休んだ人が「気づいたら自然と休んでいたんです」と言うのを認めていたら、仕事がまわりません。
 
同じミスばかりをくり返す子供に、「なんど同じことを言わせるんだ!」というお説教もできなくなってしまいます。
 
だから犯罪や事故では、「いわゆる自由意志」の力が、より大きなものとして扱われています。
 
「いわゆる自由意志」の力が大きければ、決断し実行した人「だけ」の責任にすることができますよね。
 
そうすれば、犯罪や事故を起こさない人(多数派)は責任をまぬかれることができるわけです。
 
また、マナーを守らない人がいたら、その人を堂々と排除することもできます。
 
多くのマナーは「多数派が気もちよく過ごすための決まりごと」です。
 
それを守らないということは、その人が自分でそう決断し実行したということ。
 
だからその人を容赦なく追放し、多数派の気もちいい空間をかんたんに維持することができるのです。
 
つまり「いわゆる自由意志」というのは、立場が強い人と多数派に都合のいい「便利アイテム」なのです。
 
これは私の意見というよりも、今見てきたとおり、容赦のない事実です。
 


┃自分に責任はないのか?

 
こんなお話をしていると、まるで私たちはなにごとにも責任を取らなくていいように思えてきます。
 
もちろん、そんな考え方もあるでしょう。
 
じっさい私は、誰にも責任がない「無責任」という考え方をご紹介しています。
 
従来の無責任の意味ではなく、誰も責任なんて取りようが無いという意味で「無責任」という言葉を使っているんですね。
 

参照記事
無責任という解決法
「無責任」についての詳しい解説をおこなっています。

 
これは自分も責任を取らなくてよくなる一方、他人の責任も問えなくなるという、じつはとても過酷な考え方です。
 
それに、社会がそれで平穏にまわるか疑わしくもあります。
 
葛藤する場面で限定的に使うことはできますが、日常生活をこれで送るのは困難でしょう。
 
ですので、現実に適応させるために次のように考えています。
 
あらゆる原因と結果の玉突きで動く自分だとしても、自分のなかでも玉突きが起きている。
 
少なくとも、そのぶんの責任は負うべきだ。
 
いかがでしょうか。
 
「自分のなか」「そのぶん」の判断が、またとても難しいのですが(苦笑)
 
つまり、自分の体の作用で起こす行動には、いざというとき責任をもたざるをえないでしょうということです。
 
また、「負う責任」だけではなく「果たす責任」というのもありますよね。
 
私にとっては、こちらの方が重要です。
 
自分だからこそできる「役割」を見つけて、それを果たす。
 
そうすることで、私たちは生きづらさをチカラに変えていけるからです。
 
この点は、強調しておきたいと思います。
 

参照記事
生きづらいなら役割を果たし人生を落ち着かせよう
「役割」についての詳しい解説をおこなっています。

 
私たちには、絶え間ない玉突きに合いながら、責任を負い、責任を果たす覚悟が必要なのです。
 
それは、生きるうえで「自分を引き受ける」覚悟だと言えるでしょう。
 
「いわゆる自由意志」がなくても、私たちに責任はあるのです。
 
過酷な話ですけどね・・・。
 


┃自由意志だと思ってるものはただの感想

 
生きづらい人が、「いわゆる自由意志」を中心にした社会のなかで生きていく。
 
それは、生きづらさを「おまえの責任だ」と決めつけらて生きていくということ。
 
「生きづらいのは、おまえの意志が弱いからだ」と。
 
そんな現実のなかで、生きづらい人が楽に生きていくためにはどうすればいいのでしょうか?
 
まず重要なのは、「いわゆる自由意志」をできるだけ使わないようにするとういことです。
 
「いわゆる自由意志」というのは、じつは暮らしのなかで生じた「感想」にすぎません。
 
つまり、目の前の状況に対して「今はこうすべきだろう」と思い浮かんだ、たんなる「感想」だということです。
 
なぜなら、「いわゆる自由意志」は自分をコントロールしていないのですから、ただたんに思い浮かんだ「感想」ていどのものだと考えた方がいいでしょう。
 
しかも、世間に求められている「感想」は、だいたい決まっています。
 
立場が強い人や多数派の都合に合せて、どんな「感想」を述べなければならないかが、すでに決まっているのです。
 
そのため「感想」を思い浮かべるだけでも、苦痛である場合も多い。
 
たいへん労力を使うのです。
 
それは、まったく読みたくもない本の「読書感想文」を書かされる状態に近いかもしれません。
 
教師の求める内容を想像して、出てこない言葉をうんうん唸ってひねり出そうとしている状態。
 
つまり、「できない、でもやらねば」と自分にムチを打ちつづけている状態。
 
これを、一日のうちになんどもなんどもやっていたら、当然ボロボロになってしまうでしょう。
 
しかし生きづらい人は、まさにその状態で日常を過ごしているのです。
 
だから、できるだけ「感想」を手放しましょう。
 
その苦しい「できない、でもやらねば」に気づいていきましょう。
 


┃「意志が弱い・・・」から脱け出す具体的な方法

 
全力で気を紛らわす女性

 
無数の玉突きの結果、あなたのなかに意志が生まれます。
 
生きづらい人は、他の人よりも強い意志を発揮して日々を過ごしているんでしたよね。
 
だからまずは、あなたのその意志が「強い」のだと自覚する。
 
ただ今はその強さに頼りすぎ、無理をしすぎているのです。
 
そのことに、まず気がつきましょう。
 
そのうえで、「いわゆる自由意志」を手放していくのです。
 
具体的な方法をご紹介します。
 
まず日常生活のなかで「できない、でもやらねば」という葛藤に気づいたら、その場面を書き留めていきましょう。
 
つまり、あなたの「いわゆる自由意志」のなかで、苦しみをもたらすものを記録していくのです。
 
次に、書き留めたのと同じ場面に遭遇したら、「やらねば」と思うのをやめてみましょう。
 
そうです。
 
「できない、でもやらねば」という苦しい葛藤に突入したら「いわゆる自由意志」を手放すのです。
 
難しければ、あえて寝っ転がったり、本を読むなど、別のことをはじめて、とにかく葛藤を中断してください。
 
全力で、葛藤以外のことに気もちを向けるのです。
 
本当にやらなければならないことだったら、いずれやりはじめます。
 
それが「玉突きの結果に生じる無理のないタイミング」です。
 
あなたもご経験はないでしょうか?
 
朝、目覚ましが鳴っても起きられない。
 
起きよう、起きよう、起きようと、いくら思っても起きられない。
 
そんな葛藤をくり返しているなか、ふとした瞬間に「あ、トイレ行こ」と立ち上がってトイレに行く。
 
つまり、なにごともなかったかのようにスッとすんなり起きられてしまった・・・。
 
それこそが「玉突きの結果に生じる無理のないタイミング」です。
 
それまでのあいだ「いわゆる自由意志」を使って葛藤するのは、無駄な労力になる可能性が高いのです。
 
そしてその無駄な労力こそが、あなたをより疲れさせ、動けなくさせていってしまう。
 
さらには「意志が弱い」という勘違いまで起こさせてしまうのです。
 
もちろん、待っていても起きられないときもあるでしょう。
 
思わず気が抜けて、起きる時間に間に合わなくなることもあるでしょう。
 
だとしたら、それが今のあなたにとって「必要な休養」だということではないでしょうか?
 
そのことに心の底から気づくためにも。
 
まずはあなたの労力を奪う「いわゆる自由意志」を手放していきましょう。
 

┃意志がはたらきやすい心と体と環境を整える

 
「いわゆる自由意志」を手放していくと。
 
自分がいかに無理をしていたかに気づくことができます。
 
その結果、人生の方向転換を迫られることも少なくありません。
 
今までとは生活様式が変わっていき、人生そのものが大きく動きはじめていきます。
 
離婚、親との決別、転職、脱世間起業、食事を整える、運動や趣味を変える、人間関係を整理する、心理学や哲学を学びはじめる、瞑想を取り入れてみる・・・。
 
それらは決して「いわゆる自由意志」だけの力でできることではなかった・・・。
 
あなたは、その「事実」に気づいていくはずです。
 
そして、自分のなかにある「意志」が、自然ではたらきやすい状況を選んでいくはずです。
 
私はそれを「三理一体の法則」と呼んでいます。
 
体(生理)
心(心理)
環境(物理)
 
この三つが同時に整っていくことで、生きづらい人生が心地よい人生に変わっていくのです。
 

参照記事
生き方全体を整えれば、生きづらさから脱け出せる
三理一体の法則について詳しく解説しています。

 
あなたの「意志」は、一定の方向をもっています。
 
いえ、一定の方向をもつはたらきを「意志」と私は呼ぶのです。
 
あなたの「意志」が、どんな方向をもっているのか。
 
ぜひ向き合ってみてください。
 
「いわゆる自由意思」を手放して、あなたの「意志」が向かおうとしている方向を見出してみてください。
 
そしてそのための「三理」を整えてみてください。
 
大丈夫。
 
あなたならきっとできます。
 
あなたの意志は「強い」のですから。
 
Brain with Soul代表
生きづらさ専門カウンセラー
しのぶかつのり
 
 

今回ご紹介した書籍

青山拓央:著
時間と自由意志
人はいつ「決めて」いるのか。自由なのかすべて決まっているのか?その問いを突き詰めたい方におすすめです。
 
しのぶかつのり:著
生きづらさから脱け出す実践法
生きづらい人にとって「意志」をどうとらえれるのがいいのか、詳しく知ることができます。
 
國分功一朗 熊谷晋一朗:著
<責任の生成>中動態と当事者研究
当事者研究をとおして、自由意志なき世界の人の在り方や責任について考えることができます。
 

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生きづらい人生の歩き方 <目次>

1.生きづらい人がAI時代に生き残れる仕事とは?
2.「世界一即戦力な男」に見る引きこもり脱出の糸口
3.生きづらい人向け「ビジネスの成功法則」
4.あなたは「善人」ですか「悪人」ですか?
5.お金は好きですか?-生きづらい人が陥るお金のジレンマ
6.「お金もうけ」にとらわれなくなる話
7.生きづらい人は「リア充」より「ジツ充」を目指そう
8.我慢してるのに自分勝手と言われる
9.生きづらさの正体
10.死んでも世界はつづくのか?
11.実存を充実させる生き方
12.他人の目が気になる人へ
13.「ジツ充」の極め方
14.不安の上手な対処法
15.変えられること、変えられないこと
16.「変えられること」の見つけ方
17.感情に飲み込まれない方法
18.自分と同じ症状の人が見当たらない
19.人生を変える方法
20.人生が変わる瞬間に必ず起こる問題
21.「心の空間」を生きる
22.話が噛み合わないと感じるなら
23.人生に疲れ果てたとき
24.「自分らしさ」とは何か?
25.AIと張り合うくらいなら
26.ジツ充とジコチュウの違い
27.社会に絶望している人へ
28.ネガティブ思考を変える適切な方法
29.生きづらい人は仕事を「三つ」もとう
30.心の健康法の効果が出ない理由
31.ベーシックインカムで将来も安心?
32.「悩み解決書」で悩みが解決しない理由
33.生きづらさを癒す一つの方法
34.もっとクヨクヨ考えよう
35.仕事を三つもつ理由
36.好きなことを仕事にする…?
37.苦しみの活かし方
38.向かい風を追い風にする生き方
39.行動力を身につける方法
40.お金との上手なつき合い方
41.自己洗脳と自己欺瞞
42.人並みという幻想
43.元気がないと幸せになれないのか?
44.「社会の常識」に振りまわされない
45.気が休まらない…
46.綺麗事に気づいてしまう人
47.生きづらい人が起業を成功させられる理由
48.そんなかんたんな話じゃない
49.人に気をつかい過ぎて疲れしまう
50.悩み過ぎて体がガチガチ
51.正解なんてない
52.心に余裕がない
53.誰に相談したらいいのかわからない
54.やる気はどこから湧いてくる?
55.人と対立してしまう
56.許すか、許さないか
57.生き方を決める
58.好きなこと探しの迷宮
59.生きづらさは誰のせい?
60.集中しすぎてしまう
61.家にも世の中にも居場所がないときの解決法
62.不用意に交友関係を増やそうとしない
63.自分を最強の味方にする方法
64.世間のしがらみから脱け出したい
65.あと一歩が踏み出せない
66.なぜメンタルが弱いのだろう…?
67.生きづらい人が「苦手」を克服する方法
68.心配ごとが頭から離れない
69.認められたいのに認めてもらえない
70.引きこもりは「悪いこと」なのか?
71.楽に生きたい
72.失言が多いので減らしたい
73.誰も心配してくれない
74.お金の上手な使い方
75.やる気が出ないのはなぜなのか?
76.深く悩んでいる人の方が「えらい」のか?
77.生きづらい人が幸せになりたいなら
78.この人と結婚していいのか?
79.心が敏感な人向けの対処法から抜け落ちている視点
80.人生を変えられる人と、変えられない人の違い
81.親が嫌いな自分はおかしいのか?
82.著名人と自分を比べてしまう
83.自分を信じられない
84.上司や部下に言うことを聞いてもらえない
85.劣等感は克服も解消もしなくていい
86.ポジティブシンキングがうまくできない
87.結果だけで判断される社会
88.「自分がされたら嫌ことは他人にしてはいけない」の嘘
89.「性格が悪い」と言われてしまう
90.「ありのままの自分」というやっかいな問題
91.「お金」以外に8つの基準をもとう
92.どうしてこんなにつらいのに誰にも伝わらないのだろう?
93.仕事が恐い、職場が恐い - その恐怖の正体と解決策
94.「恩知らずな人」を許せない
95.他人を不愉快にさせてしまう
96.「等身大の自分」という言葉にひそむ罠
97.有効な「貯金」の仕方を身に着けよう
98.「なぜ怒っているのかわからない」と言われてしまう
99.頑張っているのに結果が出ない・・・
100.自分を「弱い」と感じている人へ
101.集団になじめないなら「思いどおり」にやろう
102.無駄に苦しんできただけだった
103.お金の不安をなくす方法
104.私の「すべて」をわかってもらいたい - わかってもらいたい症候群
105.なぜ苦しみを「克服」できないのか?
106.生きづらいなら「心地よい人生」を目指そう
107.生きづらい人は「扁桃体をいたわる生き方」を身に着けよう!
108.生きづらい人が自由になれる「メタ思考」とは?
109.世間との「ほどよい距離」の取り方とは?
110.たんたんと生きる
111.生きづらい人が目標を達成できない本当の理由
112.三理一体の法則がうまくいかない人の共通点とは?
113.カタルシスが生きづらさ脱出の「起爆剤」になる理由
114.「生きづらさ克服」の気力を失いそうなあなたへ
115.「仕事に行きたくない、家にいたい」当事者の声と具体的な対処法
116. 気が弱い人が人生を変える極意
117.消えない恨みへの「レベル別」対処法
118.生きづらさをこじらせる「完全な被害者バイアス」とは?
119.生きづらいなら「役割」を果たし人生を落ち着かせよう
120.生きづらい人にもっとも大切な支援
121.生きづらい人は「意志が弱い」のか?
122.自分軸よりも大切なもの -「実存軸」で生きよう
123.人の言葉に傷つきやすい人が知ると楽になる二つの事実
124.メタ思考力を鍛えたいなら「バカ」や「アホ」ともつき合おう
125.生きづらさの「原因」を安易に特定するネット記事が多すぎる
126.「誰でもHSP症候群」にかかった日本
127.「結論だけ欲しがる社会」に踊れされるな
128.生きづらい人は「ギバー」を目指さなくていい
129.「一人で生きていく」と決めた生きづらい人に必要な覚悟
130.マイノリティは、なぜ生きづらいのか?
131.生きづらい人の「意識」の上手な活かし方
132.もんもん耐性、それは自分の「本質」と向き合える力
133.生きづらい人はAIと仲良くなれる - 関係性のシンギュラリティ
134.「メンタルが強い人」のアドバイスを真に受けない
135.雑談力は必要か?雑談できないあなたへ
136.嫉妬しやすい人が「嫉妬しない人」になりたいなら
137.お金に振り回されなくなる「二つの力」
138.日本社会で生きづらい人が苦しんでいる本当の理由
139.自分は本当に「生きづらい」のだろうか?
140.生きづらい人はコミュニケーションが得意という事実
141.内にこもりたいとき、あなたはどうしていますか?
142.「憧れの人」を目指すな - ビジネスの成功者に憧れる生きづらい人へ
143.私には不満がない
144.「無駄にプライドが高い人」が好きだ
145.その他大勢になるな、唯一無二のままであれ。
146.「生きる意味」が見つからない、生きづらい人へ
147.「異物」として生きて
 


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読むと心が強くなるコラム

「読むだけで生きる勇気が湧いてくる」と大好評をいただいている、しのぶかつのり(信夫克紀)の連載コラムです。
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