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更新日:2021年10月19日

たんたんと生きる

 

たんたんと生きる

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生きづらい人生の歩き方

 

第110回
たんたんと生きる

 

┃目の前に伸びる「平坦な道」をただひたすら歩いていく

 
生きづらさを克服し、最後にたどり着く場所。
 
それは「たんたんと生きる」という境地です。
 
うれしくても、悲しくても、たんたんと、たんたんと。
 
体調がよくても、悪くても、たんたんと、たんたんと。
 
トラブルがあっても、なくても、たんたんと、たんたんと。
 
お金が増えても、減っても、たんたんと、たんたんと。
 
ただひたすらに、もくもくと「役割」を果たしていく。
 
そして、実存の充実を一瞬一瞬噛みしめて「心地よい人生」を味わいながら生きていくのです。
 
もう、人より「高み」を目指して登ることもない。
 
もう、あきらめて「下山」することもない。
 
目の前にまっすぐと伸びる、みずからが進むべき「平坦な道」を、ただひたすら歩いていく。
 
たんたんと、たんたんと生きるのです。
 
「そんな人生、楽しいの?」
 
「登ったり降りたりするから、毎日面白いんじゃないの?」
 
と疑問に思われる方も多いようです。
 
しかし、そもそも人生が「楽しい」ものである必要はまったくありません。
 
それはすでに述べたとおりです。
 
人生を楽しんでいるヒマなんて、私たちにはありません。
 
「役割」を見出し、瞬間ごとに立ち上がる「生きる意味」を満たすよりも重要なことなんて、この世界にはないからです。
 
それに、どんなにたんたんと生きようとしても、あらゆるアクシデントが嫌でも起きます。
 
小さなトラブルからとてつもない災いまで、たくさんのことが降りかかってくるでしょう。
 
本気で「役割」を果たしていれば、毎日それだけで充分アップダウンします。
 
人生を面白くするために、みずからわざわざ登ったり降りたりしている人は、それだけ「余白のある毎日」を送っているということ。
 
全力で「役割」を果たしていないだけなのです。
 
 

┃たんたんと生きるとは「素朴」であるということ

 
たんたんと生きるとは、ひとことで言い換えれば「素朴」であるということです。
 
私は、ずっとずっと「素朴」でありたいと願ってきました。
 
そう言われると、宮沢賢治の「雨ニモマケズ」をイメージする方が多いのではないでしょうか。
 
でも、それとはだいぶ違うのです。
 
たしかにあのお話には、報われなくても誠実に生きていくという「素朴」な姿が描かれていますよね。
 
それはとても素敵な生き方だと思います。
 
ただ、その「素朴」には「健気さ」が垣間見えます。
 
私の言う「素朴」とは、そのような「健気さ」とは無縁のものなのです。
 
余分なものをそぎ落として、そぎ落として、そぎ落として、そぎ落としていく。
 
ただし削りすぎないように、細心の注意を払って、なんどもくり返し試していく。
 
自分の「役割」にとって、ただ必要な物だけをとことんまで見極めていく。
 
自分の「役割」にとって、ただ必要な人だけをとことんまで見極めていく。
 
自分の「役割」にとって、ただ必要な行為だけをとことんまで見極めていく。
 
そして、その必要なものだけで毎日を満たして生きていく。
 
自分にとって「素」となるものだけで生きていく。
 
その「素」となるものが、できるだけ少なくて済む人生を目指して生きていく。
 
「余分なもの」がいっさいない状態を追求していくこと。
 
それが「素朴」であるということです。
 
「素朴」であることは、私たちの実存をこれでもかと充たしてくれます。
 
だって、自分の身のまわりは、右を見ても、左を見ても、自分にとって必要なものばかり。
 
いつどこを見ても、なにをやっても、自分にとって必要なことばかり。
 
そのなかで、生きていくのですから、心地よくないわけがありません。
 
それは、結果的に欲の少ない人生なのかもしれません。
 
酒を飲むより、水で済ませられるならそれがいい。
 
映画を見るより、散歩の景色を見て済むならそれがいい。
 
ただし、少なかったり、質素であればいいということではない。
 
読み切れないほどのたくさんの本に囲まれて生きていくことも、とても素敵な体験でしょう。
 
まったく本を読まないのも、ひとつの生き方でしょう。
 
しかし「これだけは」と思える数冊の本だけを携えて生きる。
 
それが「素朴」であるということ。
 
それが、たんたんと生きるということなのです。
 
 

┃「表」が即「裏」になるような「厚みのない世界」に生きる

 
「素朴」であること。
 
それは「表」が即「裏」であるような人生とも言えるでしょう。
 
なにか行為をするとき、私たちはいろいろなことを考えますよね。
 
目の前の「呼びかけ」に対して「応答」するときも、「その呼びかけに応えるべきか?」と考えます。
 
たとえば・・。
 
損しないだろうか、感謝してもらえるかもしれない、やってあげる必要があるだろうか・・・。
 
「呼びかけ」に応える「理由」を求めるわけです。
 
つまり「呼びかけ」と「応答」のあいだに「自分」が入り込むのです。
 
しかし「役割」を見出し、一瞬一瞬の「生きる意味」を自覚して生きる人には、そこに「自分」が入り込むすき間がありません。
 
「呼びかけ」が即「応答」になるのです。
 
つまり「表」が即「裏」になるような「厚みのない世界」。
 
「表」と「裏」のあいだの「自分」がいない世界。
 
「役割」を果たすとき、私たちはそのような「厚みのない世界」にいるのです。
 
もちろん、常に完璧にそれを果たせることはありません。
 
自我があるかぎり、どうしてもそこに「自分」が入り込み「厚み」が生じてしまいます。
 
ただ、本気で「役割」を果たしていくと、その「厚み」がやがてかぎりなく薄くなっていくのです
 
つまり、「呼びかけ」が即「応答」になる状態。
 
「表」が即「裏」になるような「厚みのない世界」。
 
「自分」が入り込むすき間のない世界で、たんたんと生きていくようになるのです。
 
それは、乳幼児の子育てでもあきらかでしょう。
 
目の前で子供がオギャーと泣いたとき。
 
親はその子を抱きかかえます。
 
その「呼びかけ」と「応答」のあいだにすき間はありません。
 
抱っこしたら感謝されるだろうか、損しないだろうか、私は親だから抱っこするべきか・・・。
 
そんなことを考える前に、気がつけば抱っこしている。
 
親という「役割」を果たすことに必死であるときこそ、我が子をサッと抱きかかえることが多いでしょう。
 
それは「厚みのない世界」。
 
「呼びかけ」が即「応答」になっている状態。
 
「表」が即「裏」になるような「厚みのない世界」なのです。
 
 

┃すべてを「受容」する

 
たんたんと生きるようになれば、毎日は穏やかに充実したものになります。
 
そのためには、すべてを「受容」する必要があります。
 
それは、すべてを「許す」こととは違います。
 
すべてを、「よいもの」として肯定することとも違います。
 
「受容」とは、そのまま受け容れること。
 
すべてのものを判断もせず、肯定も否定もせず、ただそのままそこにあることを認めるということ。
 
目の前のものごとだけではありません。
 
自分のなかに湧いてくる怒りや悲しみといったネガティブな感情、殺意といった激しい思いまで、ただただそのまま、それがそこにあることを認めるのです。
 
これは言うほどやさしいことではありません。
 
とてもラディカル(原理的で過激)なおこないです。
 
でも、これをしなければ、たんたんと生きることはできません。
 
なぜなら、あらゆるできごと、あらゆる感情に一喜一憂して、それに取り込まれ、飲み込まれ、振りまわされてしまうからです。
 
そして、それらのできごとや感情によって「役割」を放り出してしまうでしょう。
 
その結果、また人より「高み」を目指したり、それに失敗し打ちひしがれて「下山」することをくり返す日々に舞い戻ることになります。
 
宝くじが当たったからといって放り出してしまうのなら、それは「役割」ではありません。
 
今日はなんだかやる気がでないからといって放り出してしまうのなら、それは「役割」ではありません。
 
宝くじが当たろうが、やる気がでなかろうが、たんたんとこなしていく。
 
とてつもないラッキーも、とてつもないネガティブな感情も、ただ「受容」して「役割」を果たしていく。
 
それが、たんたんと生きるということです。
 
 

┃たんたんと生きるなかで起きる大問題

 
私たちは、自分のために人の役に立つことで、生きづらさをチカラに変えてきました。
 
そして、両極を包み込んで成熟させることで、生きづらさを克服してきました。
 
しかし、それはあくまでも「自分が楽になりたい」という「自我」の欲求を満たすためでした。
 
生きづらい、あまりにも苦しい、その過酷な苦しみからどうにか脱け出したいがために、とってきた選択にすぎません。
 
そして、それはもちろん責められることではありません。
 
それほどまでに苦しいのですから、選択して当然でしょう。
 
というよりむしろ、それすらも選択しようとしない人が多いなかで、超人的な行動力を発揮してきたと言えるでしょう。
 
それは「自我」が頑張ってくれたからです。
 
ただし、たんたんと生きていると、そのような「自我」の欲求が不要になってくる。
 
むしろ「ジャマだ」と感じられるようになってくる。
 
「これさえなければ、もっとすんなり役割が果たせるようになるのにな」と感じるようになってくるのです。
 
そしてそのまま「自我」は消えていく・・・はずがありません。
 
逆に「自我」の欲求は肥大してきます。
 
食欲、物欲、性欲、自己顕示欲、優越欲、あらゆる欲求を満たそうと猛威をふるいはじめるのです。
 
「私を置き去りにするつもりか」と。
 
ここまでくるために、私たちは「自我」の欲求(エゴイズム)をフル活用してきました。
 
そのエネルギーのおかげで、生きづらさをチカラに変え、生きづらさを克服してきました。
 
そして、いざその目標にたどりついたら。
 
こんどは、その「自我」が邪魔に思えてくる。
 
それさえなければとすら感じられてくる。
 
それは「自我」の立場からすれば、耐えがたい不条理でしょう。
 
「今までいいように使ってきて、いらなくなったら捨てるのか?」
 
「しまいには邪魔ものあつかいか?」
 
そして「自我」がその存在を猛烈にアピールしはじめるのです。
 
 

┃「取り戻したい!」と「自我」がうなり声をあげる

 
その結果「自我」は、過去に果たすことにできなかった「成功」や「快楽」までもを求めはじめます。
 
いったいなぜでしょうか?
 
それは、その人の過去があまりにも過酷だったから。
 
そのために、その過酷な過去を払拭できるほどの「成功」や「快楽」をどうしても欲してしまうのです。
 
この「成功」と「快楽」を手に入れるために自分は苦しい思いをしてきたのだ。
 
そう納得できるくらいの「成功」や「快楽」への切望をどうしても捨てきれない。
 
その「未練」が断ち切れないのです。
 
生きづらさを克服する過程で、私たちはいろいろなものを手に入れます。
 
ときに、多くの金銭や信頼や天職、理想の家族までもが手に入るかもしれません。
 
その理想的な状況を活かして、「自我」はあらゆる欲求を満たそうと肥大しはじめます。
 
このチャンスを逃してなるものか、と。
 
生きづらさのために失ってきた「成功」や「快楽」。
 
それを手に入れることへの未練がどうしても断ち切れない。
 
そう。
 
「取り戻したい!」と「自我」がうなり声をあげるのです。
 
生きづらさをチカラに変え、生きづらさを克服する。
 
そのときに「自我」は大きな原動力になってくれました。
 
やがて「役割」を果たすなかで、「自我」よりも他人への貢献が優先されるようになっていきます。
 
「自我」の存在意義が、どんどんと薄まっていきます。
 
活躍の場が減っていきます。
 
しかし「自我」は、そこまでお人よしではありません。
 
「他人を幸せにして、私は自分の欲求一つも満たしてもらえないのか?」
 
「人の役にばかり立って、私はいいように使われて終わりなのか?」
 
そうやって、手のつけようがないほどに暴れまくるのです。
 
そこで重要になってくるのが、「自我」のはたらきを「受け取りなおす」ということです。
 
 

┃「自我」のはたらきを「受け取りなおす」

 
今まで「自我」は、自分自身のための「自我」でした。
 
それが「自我」のはたらきでした。
 
しかし私たちが、真に自分の「役割」を受け容れたとき。
 
私たちと「役割」との関係に、大きな変化を体験します。
 
それは、もはや「役割」は自分で選び決めていいものではなく、人生からの「要請」であったと受け容れる瞬間だとも言えるでしょう。
 
その瞬間から「自我」は、「役割のための自我」であろうとしはじめます。
 
つまり、自我の欲求を満たすのは「役割を果たすため」であろうとするのです。
 
おいしいものを食べるのも、グッスリ寝るのも、セックスするのも。
 
それらすべてが「役割を果たすため」になっていく。
 
「役割」を果たすための欲しか求めなくなっていくのです。
 
ただし、ときに「自我」は偽装します。
 
「役割のためだよね」と言って、たんなる「成功」や「快楽」に自分を引っ張っていこうとする。
 
そんな「自我の偽装」と「役割を果たそうとする自我」との葛藤。
 
それがくり返されるなかで、やがて「自我」も「役割」も、どちらもが納得するような「欲求の使い方」が見えはじめてくる。
 
自我が納得できる「新たな活躍の場」が見えてくる。
 
そうしてはじめて、「表」が即「裏」になるような人生が本格的に達成されていく。
 
「素朴」が達成されていくのです。
 
 

┃自分が削り取られていく感覚、自分が倒壊していく感覚

 
「素朴」が達成された「厚みのない世界」では、自我は「役割」のためにはたらきます。
 
「役割」を果たすために、自分そのものが使われるようになっていく。
 
「役割のための自分」になっていく。
 
私のもっとも尊敬する心理学者であり心理療法家の諸富祥彦先生は、ご自身のYoutube動画のなかで、次のように述べておられます。
 
私たちの実存の根底において真実が現生していくためには、自分が削り取られていく感覚、自分が倒壊していく、壊れていくという感覚が不可欠である、と。
 
これはまさに、「自分」の入るすきが限りなく薄い「厚みのない世界」について述べておられるのではないかと私は感じました。
 
「呼びかけ」が即「応答」になるような。
 
「表」が即「裏」になるような。
 
「自我」のはたらきが受け取りなおされた人生。
 
素朴。
 
たんたんと生きる。
 
そのことが、諸富祥彦先生の語る濃厚な言葉のなかに、すべて詰まっているように私には感じられるのです。
 
 

┃つべこべ言わずにただ生きる

 
たんたんと、たんたんと。
 
素朴に生きる。
 
すべてが「役割」を果たすためのものとなっていく。
 
その日々には、実存の充実が満ちあふれています。
 
そのなかで、私は一つの指針を伝えたいと思います。
 
たんたんと生きるための、人生の指針です。
 
それは「つべこべ言わずに、ただ生きる」。
 
私がこれを人生の指針にしたのは、ある犬の姿を見たときです。
 
その犬は、人間に虐待され放棄されていたところを保護されました。
 
胃のなかは、空腹をなんとかするために食べたであろう、石や砂がたくさん入っていました。
 
そして、詳細を書くことは避けますが、こともあろうか両前足に大けがを負わされ、まともに動かせるのは、生涯、後ろの二本のみにされていました。
 
ケガが回復しても、前足は、かろうじて一本を地面につけることができるだけ。
 
その犬が体力を回復し、原っぱに連れられてきました。
 
原っぱに下ろされたた犬は、どうしたでしょうか。
 
尻尾を振って、ひょこひょこと歩きはじめました。
 
二本半しか足が動かないにもかかわらず「迷わず」歩きはじめたのです。
 
「原っぱ」があるから「歩く」。
 
目の前に「原っぱ」があるから、ただ「歩く」。
 
原っぱという「呼びかけ」に対して、「応答」して歩く。
 
そこには、余計な「厚み」はありませんでした。
 
「前足が使えないから歩けないよ」
 
とか、
 
「なんでこんな体にされてしまったんだ」
 
とか、
 
「どうせ歩いたってろくなスピードが出せないんだ」
 
という余計なことは入るすき間がない。
 
つべこべ言わず、ただ歩いたのです。
 
かたや私たちはどうでしょうか?
 
「呼びかけ」と「応答」のすき間に、
 
「こんな状況じゃできないよ」
 
「なんでこんな親に育てられてしまったんだ」
 
「どうせダメ人間だからなにをやっても無駄なんだ」
 
と、すぐに「自分」を入れて「厚み」をつくってしまうのではないでしょうか?
 
だから、私は思いました。
 
その犬と原っぱを見て思ったのです。
 
「つべこべ言わずに、ただ生きよう」と。
 
これは、かわいそうな犬の健気さについて話をしているのではありません。
 
どんなに悲惨な目にあっても頑張ろうという、お道徳を述べているのでもないのです。
 
「呼びかけ」に即「応答」すること。
 
「表」が即「裏」になる「厚みのない世界」で生きること。
 
それは、とてつもなく「強い」ということなのです。
 
原っぱに対して犬の「役割」は歩くことだった。
 
その「呼びかけ」に即「応答」した。
 
それが「たんたんと生きる」ということ。
 
たんたんと生きていても、たくさんのことが起きます。
 
それでも、そのたくさんのできごとを、たんたんとこなしていく。
 
たんたんと、たんたんと。
 
素朴に。
 
つべこべ言わすに。
 
それは生きづらい人が「最後にたどり着く境地」なのです。
 
 

┃おわりに

 
たんたんと生きる。
 
そのために「自我」のはたらきを受け取りなおすこと。
 
あなたには、このコラムを参考にしながら、くれぐれも慎重に対処してもらいたいと思います。
 
そのために、私はこのコラムを書きました。
 
「自我」のはたらきを受け取りなおすこと。
 
サラリと書いてのけましたが、私自身がそこを乗り越えるためには、激しい葛藤の高まりを経験しなければなりませんでした。
 
自我のはたらきに翻弄され、「役割」とのあいだでもがき苦しみ、もはやどうにもならず、自我の母体であるみずからの命を絶つしかないと追い込まれたことも、一度や二度ではありませんでした。
 
なんども死の淵を歩きました。
 
そこから生還できたのは、諸富先生が博士論文の一部を「人間形成における<エゴイズム>とその克服過程に関する研究」として書籍化しておいてくださったから。
 
そしてそれが私の手元にあってくれたからです。
 
あなたには、たんたんと生きるために、私と同じような死の淵を歩く経験をしてほしくありません。
 
できるだけ着実に、たんたんと生きる人生を手に入れて欲しい。
 
だってもうあなたは、さんざん苦しんできたのですから。
 
さんざん死の淵を歩いてきたのですから。
 
私を信じて生きづらさをチカラに変えてくれたあなたに、もうこれ以上つらい思いもしてもらいたくないし、ましてや死の淵なんて歩いて欲しくありません。
 
だから、私はこのコラムを書きました。
 
それが私の「役割」です。
 
もちろん、どこまでも自分で考え抜くことは重要です。
 
どこまでも自分で葛藤しつくすことも重要です。
 
だからといって、あなたまでもが死の淵を歩く必要はありません。
 
私も、諸富先生の「言葉」があったから、なんとか死の淵で足を踏み外さずに生還することができました。
 
あと一歩踏み外せば奈落の底に落ちていたでしょう。
 
そんなときに、とっさにつかめる場所にすでにロープが用意してあった。
 
それをかろうじてつかんで、私はなんとか命をとりとめ、また歩き出すことができた。
 
そのロープが、私にとっては「人間形成における<エゴイズム>とその克服過程に関する研究」だったのです。
 
たいへん僭越ですが、私のコラムが、あなたにとってそんな存在になれればいいと思っています。
 
その思いを強く込めて、このコラムを締めくくりたいと思います。
 
最後までお読みいただきまして、ありがとうございます。
 
Brain with Soul代表
生きづらさ専門カウンセラー
しのぶかつのり(信夫克紀)
 

参考資料

諸富祥彦『「ほんとうの人生」を生きるために大切な6つのこと/フルバージョン(質問への回答付き)』諸富祥彦チャンネル,Youtube
諸富祥彦「人間形成における<エゴイズム>とその克服過程に関する研究」風間書房

 

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生きづらい人生の歩き方 <目次>

1.生きづらい人がAI時代に生き残れる仕事とは?
2.「世界一即戦力な男」に見る引きこもり脱出の糸口
3.生きづらい人向け「ビジネスの成功法則」
4.あなたは「善人」ですか「悪人」ですか?
5.お金は好きですか?-生きづらい人が陥るお金のジレンマ
6.「お金もうけ」にとらわれなくなる話
7.生きづらい人は「リア充」より「ジツ充」を目指そう
8.我慢してるのに自分勝手と言われる
9.生きづらさの正体
10.死んでも世界はつづくのか?
11.実存を充実させる生き方
12.他人の目が気になる人へ
13.「ジツ充」の極め方
14.不安の上手な対処法
15.変えられること、変えられないこと
16.「変えられること」の見つけ方
17.感情に飲み込まれない方法
18.自分と同じ症状の人が見当たらない
19.人生を変える方法
20.人生が変わる瞬間に必ず起こる問題
21.「心の空間」を生きる
22.話が噛み合わないと感じるなら
23.人生に疲れ果てたとき
24.「自分らしさ」とは何か?
25.AIと張り合うくらいなら
26.ジツ充とジコチュウの違い
27.社会に絶望している人へ
28.ネガティブ思考を変える適切な方法
29.生きづらい人は仕事を「三つ」もとう
30.心の健康法の効果が出ない理由
31.ベーシックインカムで将来も安心?
32.「悩み解決書」で悩みが解決しない理由
33.生きづらさを癒す一つの方法
34.もっとクヨクヨ考えよう
35.仕事を三つもつ理由
36.好きなことを仕事にする…?
37.苦しみの活かし方
38.向かい風を追い風にする生き方
39.行動力を身につける方法
40.お金との上手なつき合い方
41.自己洗脳と自己欺瞞
42.人並みという幻想
43.元気がないと幸せになれないのか?
44.「社会の常識」に振りまわされない
45.気が休まらない…
46.綺麗事に気づいてしまう人
47.生きづらい人が起業を成功させられる理由
48.そんなかんたんな話じゃない
49.人に気をつかい過ぎて疲れしまう
50.悩み過ぎて体がガチガチ
51.正解なんてない
52.心に余裕がない
53.誰に相談したらいいのかわからない
54.やる気はどこから湧いてくる?
55.人と対立してしまう
56.許すか、許さないか
57.生き方を決める
58.好きなこと探しの迷宮
59.生きづらさは誰のせい?
60.集中しすぎてしまう
61.家にも世の中にも居場所がないときの解決法
62.不用意に交友関係を増やそうとしない
63.自分を最強の味方にする方法
64.世間のしがらみから脱け出したい
65.あと一歩が踏み出せない
66.なぜメンタルが弱いのだろう…?
67.生きづらい人が「苦手」を克服する方法
68.心配ごとが頭から離れない
69.認められたいのに認めてもらえない
70.引きこもりは「悪いこと」なのか?
71.楽に生きたい
72.失言が多いので減らしたい
73.誰も心配してくれない
74.お金の上手な使い方
75.やる気が出ないのはなぜなのか?
76.深く悩んでいる人の方が「えらい」のか?
77.生きづらい人が幸せになりたいなら
78.この人と結婚していいのか?
79.心が敏感な人向けの対処法から抜け落ちている視点
80.人生を変えられる人と、変えられない人の違い
81.親が嫌いな自分はおかしいのか?
82.著名人と自分を比べてしまう
83.自分を信じられない
84.上司や部下に言うことを聞いてもらえない
85.劣等感は克服も解消もしなくていい
86.ポジティブシンキングがうまくできない
87.結果だけで判断される社会
88.「自分がされたら嫌ことは他人にしてはいけない」の嘘
89.「性格が悪い」と言われてしまう
90.「ありのままの自分」というやっかいな問題
91.「お金」以外に8つの基準をもとう
92.どうしてこんなにつらいのに誰にも伝わらないのだろう?
93.仕事が恐い、職場が恐い - その恐怖の正体と解決策
94.「恩知らずな人」を許せない
95.他人を不愉快にさせてしまう
96.「等身大の自分」という言葉にひそむ罠
97.有効な「貯金」の仕方を身に着けよう
98.「なぜ怒っているのかわからない」と言われてしまう
99.頑張っているのに結果が出ない・・・
100.自分を「弱い」と感じている人へ
101.集団になじめないなら「思いどおり」にやろう
102.無駄に苦しんできただけだった
103.お金の不安をなくす方法
104.私の「すべて」をわかってもらいたい - わかってもらいたい症候群
105.なぜ苦しみを「克服」できないのか?
106.生きづらいなら「心地よい人生」を目指そう
107.生きづらい人は「扁桃体をいたわる生き方」を身に着けよう!
108.生きづらい人が自由になれる「メタ思考」とは?
109.世間との「ほどよい距離」の取り方とは?
110.たんたんと生きる
111.生きづらい人が目標を達成できない本当の理由
112.三理一体の法則がうまくいかない人の共通点とは?
113.カタルシスが生きづらさ脱出の「起爆剤」になる理由
114.「生きづらさ克服」の気力を失いそうなあなたへ
115.「仕事に行きたくない、家にいたい」当事者の声と具体的な対処法
116. 気が弱い人が人生を変える極意
117.消えない恨みへの「レベル別」対処法
118.生きづらさをこじらせる「完全な被害者バイアス」とは?
119.生きづらいなら「役割」を果たし人生を落ち着かせよう
120.生きづらい人にもっとも大切な支援
121.生きづらい人は「意志が弱い」のか?
122.自分軸よりも大切なもの -「実存軸」で生きよう
123.人の言葉に傷つきやすい人が知ると楽になる二つの事実
124.メタ思考力を鍛えたいなら「バカ」や「アホ」ともつき合おう
125.生きづらさの「原因」を安易に特定するネット記事が多すぎる
126.「誰でもHSP症候群」にかかった日本
127.「結論だけ欲しがる社会」に踊れされるな
128.生きづらい人は「ギバー」を目指さなくていい
129.「一人で生きていく」と決めた生きづらい人に必要な覚悟
130.マイノリティは、なぜ生きづらいのか?
131.生きづらい人の「意識」の上手な活かし方
132.もんもん耐性、それは自分の「本質」と向き合える力
133.生きづらい人はAIと仲良くなれる - 関係性のシンギュラリティ
134.「メンタルが強い人」のアドバイスを真に受けない
135.雑談力は必要か?雑談できないあなたへ
136.嫉妬しやすい人が「嫉妬しない人」になりたいなら
137.お金に振り回されなくなる「二つの力」
138.日本社会で生きづらい人が苦しんでいる本当の理由
139.自分は本当に「生きづらい」のだろうか?
140.生きづらい人はコミュニケーションが得意という事実
141.内にこもりたいとき、あなたはどうしていますか?
142.「憧れの人」を目指すな - ビジネスの成功者に憧れる生きづらい人へ
143.私には不満がない
144.「無駄にプライドが高い人」が好きだ
145.その他大勢になるな、唯一無二のままであれ。
146.「生きる意味」が見つからない、生きづらい人へ
147.「異物」として生きて
 


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